「観察」はジッと見ていることではない

「篠原さんは観察を重視していますけれど、子どものことをずっと観察してるのは難しいです」と相談された。
観察は、長時間ずっと見ていることではない。観察とは「自分が気づかなかったこと、知らなかったことを探し、気づこうとすること」。ずっと見ているとかえって気づきは得られなくなる。

脳科学者の茂木健一郎さんがテレビ番組で「アハ体験」というのをよくやっていた。映像を見せるのだけど、その映像が実にゆっくり変化していくので、じっと見ているとかえってどこが変化したのか気づかない、という面白い体験。映像を鵜の目鷹の目で見ていても、気づかずに終わってしまうことも。

初めの映像と最後の映像の2枚を見せられたら、どこが違うのか一目瞭然。なのにじっとずっと見ていると、かえって変化に気づくことができない。
たまに会う親戚が「うわあ、大きくなったねえ!」と我が子の変化に驚く様子を見て、そんなに変わったかな、と思いを新たにすることがある。

そばにいるとかえって気づかないが、たまに会うからこそ変化に気がつく、ということがある。観察は「変化に気づく」ことでもあるので、じっとずっと見ていることがかえって変化に気づきにくくしているのなら、「目をそらす」ことも、観察する上では重要なテクニックとなる。

司馬遼太郎「龍馬がゆく」で紹介されているエピソード。海外の文献を紹介する講義に龍馬は出席していたのだけれど、鼻をほじりながらの不真面目な態度。なんで参加しているんだという周囲の反応。ところがある時、「先生、翻訳がまちごうとる」と龍馬が指摘。

ろくに外国語を勉強もしていないのに何を偉そうに、と先生もムッとした顔。でも龍馬は「そんなことは書いていないはずです。頼みますから、一度原文を見てください」と龍馬。しかめっ面のまま教師が原文を読み直すと「訳を間違えた・・・」と青い顔。龍馬を見る目が一気に変わる周囲の生徒たち。

「龍馬は先生よりも外国語に通じている」とみんなが驚いたが、龍馬からすれば「いや、この本の基本的な考え方からずれた話を先生がしたから、きっと原文ではそんなこと言っていないはずだ、と思っただけだ」と答えたという。龍馬は話の道筋をざっくり「観察」することで、違和感に気がついた。

これまた司馬遼太郎「峠」のエピソード。長岡藩の河井継之助は、藩政改革について勉強したいと備中松山藩の山田方谷のもとを訪れた。ところが山田にあれこれ質問するわけでもなく、寝たり散歩したり、かなり気ままに過ごしていたという。でも、河井は寝そべりながら、無関心なようでよく観察していた。

河井は長岡藩に戻った後、藩政改革を断行し、のちに戊辰戦争では官軍をさんざん苦しめ、のちの明治政府から惜しい人材であったと記憶されることになった。河井は不真面目なようで、方谷のやり方をよく「観察」していたのだろう。

観察とは、「見てるだけ」ではない。かなり実験的な方法だ。何か普段と違うかな、という変化、差分に気がついたら、「もうしばらくした後、もう一度その変化が起きているのか、意識的に観察してみよう」と、間を置いて、これはというタイミングで観察する。つまり。

こういう変化、差分が起きているのではないか?と仮説を立て、一定の時間を置いてから確認する、というのも観察の手法の一つ。この場合、「じっとずっと見る」とはずいぶん異なる。観察は、変化、差分に気づくためだから、あえて時間を置くことも大切なコツ。

ここで重要なのは、人間は見たい事実だけが見える、というクセがあるということ。観察したつもりになって、仮説を立てたつもりになって、自分の見たい事実を確認するために仮説を立て、「ほらやっぱり」と、自分の考えを補強する事実を見つけて安心する、ということが結構ある。

しかし、ナイチンゲールに次の言葉がある。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
見たい事実だけを見る、確認するのは、観察とは呼べない。それは観察ではない。

観察は「自分がそれまで気づかなかったこと、知らなかったことに気づこう、知ろうと探索する行為」。自分の見たくなかった、見ようとしなかったことも観察の対象となる。仮説も、自分の知らなかった事実、気づかなかった兆候に対して立てるように意識する必要がある。

医師や看護師が「様子を見ましょう」という場合、ジッとずっと見ているということではなく、1日2日の時間経過の中で変化が起きるかどうかを「観察」している。ある程度の時間が経たないと、変化、差分は現れないからだ。変化・差分をとらえることこそ、観察が目指すこと。

だから私は、観察すると言ってもあまりジッと見ていない。ずっと見ていない。むしろ、見る角度を変える(視点を変える)。こちらの立ち位置を変える(視座を変える)。いっそ他人の目を借りる(しばらく会っていない親戚に見てもらうのと同じ)。観察は変化、差分に気づくためなのだから。

自分の目で見ることに必ずしもこだわらない。もちろん、自分の目で見て、その場に身を置くということはとても大切。観察の重要な一手法。でもそのほか、あえてその場から離れる、他人の意見、モノの見方を聞く、ということも観察の手法。観察は、ありとあらゆる方法で変化・差分に気づこうとする行為。

河井継之助が師匠の山田方谷の前でわざと不真面目な態度、怠惰な姿勢を見せ続けていたのは、山田が油断して姿勢を崩す場面が見られるかどうかを試していた面があった様子。でも山田は裏表なく藩政に努めているのを見て、これは本物だと心から尊敬することになったらしい。

これに似たエピソードが横山光輝「三国志」にある。徐庶という人物が社会を風刺する歌を歌って歩いていると、人物を求めていた劉備が声をかけ、屋敷に連れて行った。しばらく歓談した後、劉備の馬を見て「これは呪われた馬です。必ず乗るものを不幸に陥れるでしょう、そこで」と続けた。

「部下の誰かにいったんこの馬を譲るのです。そしてその人間が呪われた後でしたら、安心してこの馬に乗ることができます」と言った。劉備は、部下を不幸に陥れるなどという提案を平気で口にするような人物とは付き合いたくない、といって徐庶を追い出そうとした。そこで徐庶は笑い出した。

「すみません、あなたを試したのです。もし部下を平気で陥れるような人間だったら、私は仕えようと思わなかったでしょう」と言い、劉備に仕えることにした。徐庶は試すようなことをすることで、劉備がどう出るか「観察」していたわけだ。

観察はこのように、ただ「見ているだけ」ではない。何か働きかけをしてみて、その反応がどうなるのかを見守るのも「観察」の重要なコツの一つ。

「観察」と聞いて、「じっとずっと見ていること」と勘違いするのは、むしろ観察が分かっていない証拠と言えるかもしれない。眼球に力を籠めることは、観察にも何にもならない。変化、差分に気づくこと。そのために近づいたり遠ざかったり、働きかけたりと、いろんなアプローチをするのが観察。

赤ちゃんは観察の天才。オモチャは遊ぶもの、と大人は思い込んでるけれど、赤ちゃんはかじったりなめてみたり叩き落したり何かにぶつけたり投げ飛ばしたり。ありとあらゆるアプローチで五感をフル動員し、それを「観察」する。

叩くとこんな音が鳴るのか、これくらいの勢いでぶつけると壊れるのか、味はこんななのか、噛むとこんな固さなのか、ニオイはこんななのだ、などと、ありとあらゆる方法から、その事物を学び取る。赤ちゃんは方法にこだわらない。いろんなアプローチを試す。

いわば、ビッグデータを自分の肉体に入力するようなもの。人工知能がビッグデータを学習して、だんだんとその事物を理解できるようになるように。赤ちゃんは、五感をフル動員して「観察」するように、最初からプログラムされているらしい。ならば、大人も赤ちゃんを見習えばよい。

まあ、さすがにかじったりなめたりは大人だと控えなきゃいけないけれど、大人ならではの多様なアプローチは可能。事物に働きかけてどんな反応が返ってくるのかも、いろんな働きかけ方がある。そして、気づいていなかったことに気づく。それが観察なのだと思う。

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