知識自由人と知識囚人

知識が身につけば身につくほど自由になる人と、逆に知識の囚人になる人とがいる。この違いはなぜ生まれるのだろう?
前者は、知識を絶対的なものとは捉えていない気がする。それまでこうだと理解してきたけれど、もっと違う理解をしたほうがよいと後日わかることがあるかもしれない、と。

後者は、「これはこういうものだ」で絶対的に決まってしまうように考えているフシがある。知識を流動的には捉えず、他の解釈を許さない偏狭さがある。もしそんなことをしたら、知識があるという優位性が揺らいでしまうかもしれないから。

前者は、知識を絶対的な価値のあるものとみなさず、むしろ真実に近づくための道具(ツール)として捉えているフシがある。自分がこうと考えていても、違うものの見方を示されれば「あれ?そういう見方もできるの?」とあっさり意見を覆す。自分の意見より真理真実に興味関心が強い。

後者は、自分の言った言葉、あるいは自分の知っている知識に間違いを許せないことが多い。真理真実よりも、自分の知識が、自分の言った事が正しいとされることを重視する。そのためなら、真理真実から遠ざかることになっても構わない。真理真実は、自分を飾るための道具(ツール)に成り下がっている。

歴史上の人物だと、前者はソクラテス、後者はプロタゴラスだろうか。ソクラテスは、真理真実に近づくためなら、どんな人からも教えを請おうとした。自分の知識や過去の発言にこだわる人ではなかった。他方プロタゴラスは、自分の知識や発言に縛られる傾向があった。このため。

ソクラテスが自由自在に思考を巡らせるのに対し、プロタゴラスは自分の言った言葉に縛られ、ついには「私はそのことをあまり知らないのだ」と白状せざるを得なくなった。ソクラテスは、自分はよく知らないことを最初から表明し、だから強く、プロタゴラスは「知ってる」フリをするから弱くなった。

知識自由人は、観察が上手い。知識を得れば得るほど、物事を観察する着眼点が増え、ますます観察眼が鋭くなる。知識囚人は知識が身につくほど観察ができなくなる。「これはこういうものだ」と決めつけて終了。今さら観察しても新しい発見はない、と決めつける。

知識囚人は、観察によって自分の知識の確かさが揺らぐことを嫌う。もし知識と矛盾する観察結果が出ても「それはたまたまだ、基本は私の言ってる通りになる」と言って、一蹴する。目の前の現実を直視することができない。

知識自由人は、それまでの知識では説明できない現象が観察されると、大変興味を持つ。もしかしたら知らない法則があるのかも、と嬉しくなる。知識自由人は、新しい知識に貪欲。それでいて、目の前の現場に起きることにも柔軟に対応できる。

私は知識自由人でありたいと思っている。知識は増やしたいが、その知識のために目の前の現実で起きていることを観察できなくなることを恐れる。それよりは、目の前の現実から、知らない事実をすくい取れるようでありたい。

しかし知識囚人は、目の前の出来事を、知っている知識で料理することしかできない。自分の知らないことを拾い上げることができない。知らないことに出会うことを恐れるかのように。自分の知識不足がバレることを恐れるように。

知識自由人は、平気で教えを請うことができる。知らないことを知らないと平気で口にし、それを知っている人から教えてもらおうとすることができる。人の知識に素直に驚ける。驚きと感動があるから、それを印象深く覚えることができる。

知識囚人は、人より知識がないと思われることを恐れる。たとえ自分の知らないことを知ってる人に出会っても、「これを知ってる?」と別の知識を披露して、自分の優位を示そうとする。人に教えてもらうことができない。

知識自由人は、知識を得れば得るほど未知を素直に未知と認め、それを知りたがる。知識囚人は知識を得るほど不自由になり、未知を未知と言えなくなり、現実がどんどん見えなくなり、現実から乖離していく。

知識自由人は、知識を身につければ身につけるほど素直になり、子どものようになる。
知識囚人は知識を身につけるほど、頑迷な老人のようになる。
なぜこんな違いが生まれるのかは、また今度考察してみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?