教育本の「~してあげる」「~させる」という表現がなぜ嫌いなのか

ありがたいことに、教育系雑誌から何度かインタビューを受けたことがある。ところがそれで上がってくる記事はどうしたわけか、ものすごい確率で「親(教師)が~してあげる」という表現になっている。私はこの「してあげる」が大嫌いで、全部直してもらっている。でも、なんでこんなに嫌いなんだろう?


どうもいくつか理由があるらしい。「~してあげる」の主語は当然ながら、親か教師。でも私は基本、子どもがどうなるかが大事なのだから、まずは子どもをよく観察し、子どもの状況を把握したうえで、自らの言動を決める、という順序で考えている。そうなると、主語はどうしても「子どもが」になる。


でもどうしたわけか、インタビュー記事になると「親(教師)が~してあげる」と、親や教師が主語になる。これは読者が親(教師)だということの意識が、記者に強いためだろう。読者がどうすればいいのかを伝えたいわけだから、親(教師)を主語にするのは仕方ないように思える。しかし。


親(教師)を主語にすると一つ弊害がある。子どもをよく観察しなくなること。子どもがいまどうあるかをよく観察せずに、「そうか、親はこうしてあげるといいんだな」と、子どもの状態に頓着せずに本や雑誌に書いてある通りに実践しようとする。でもこれではうまくいくことは少ないだろう。


親(教師)が何を始めるにしろ、子どもの観察抜きにうまくいくことはない。ならば、親(教師)を主語としたマニュアルめいたものを書いてもムダで、まずは子どもがどういう状態にあるのかを観察することを重視する必要がある。となると、どうしても文体は親(教師)を主語にするわけにいかなくなる。


また、「~してあげる」には、親(教師)側の傲慢さが感じられる。「こんな素晴らしいことをしてあげるのだから、当然子どもであるあなたはそれに感謝すべきだし、こちらの望む反応をすべきだよね」という、傲慢さと期待と押し付けを感じる。これがどうも私は苦手。


親(教師)がどう振る舞おうと、子どもがどんな行動をするかは子ども次第。子どもが決めること。なのに「~してあげる」は、「それ以外の反応をしたら許さんよ、怒るよ、なんなら叱るよ』という脅しさえ裏側から感じ取れる。子どもを縛りつけるのを当然視する傲慢さが、「~してあげる」に感じられる。


「子どもの様子を見て、子どもがもしこういう状態だった場合、こういう声掛けをするとよいかもしれない」と、私は子どもを主語にして書くんだけれど、後段の方は誰かは書かない・言わないことが多い。そこ、どうでもいいし。また、それが効果を表すとは限らない、という表現にする。


どんな反応するのかは子ども次第だから。声掛けによって子どもが別の反応をした場合、また仮説を練り直して、別の声掛けをしてみる。こうした試行錯誤の繰り返し。子育ては、パシッと決まったマニュアルはない。あくまで蓋然性のあるコツみたいなのをお勧めするのが関の山。大切なのは観察と試行錯誤。


子どもにどう接したらよいか、どう声掛けしたらよいかは、親(教師)の側に答えはない。答えは常に目の前の子どもの側にある。親(教師)にできることがあるとすれば、まずは子どものことをよく観察する。そのうえで、どんな声掛けが有効そうか、無意識が紡ぐ仮説に耳を傾ける。そればかり。


教育系雑誌とか、子育て本とか、あるいは人から聞いた話とかアドバイスとかは、仮説を紡ぐのを手助けする程度、ヒントに過ぎない。「答え」では決してない。あくまで子どもを観察し、観察の結果、無意識が紡ぎ出す仮説を採用するしかない。


私が子育て本や教育雑誌での記事、あるいは部下育成本で書いたことは、すべてそうした考え方に基づいている。答えは子ども(部下)の側にあって、親(教師、上司)の側にない。本や記事は、仮説を紡ぐ際のヒントにはしてもらえても、まずはその場その場の観察と仮説を大事にしてもらうしかない。


そういう考え方だから、「親(教師)が~してあげる」という言葉遣いがキライなのだろう。でもビックリするくらい、教育系雑誌にはこの表現が満ち溢れている。このテーマで論文書けるかもしれない、くらいに。でも、この表現、そろそろ卒業したほうがよいように思う。


追伸

フォロワーからのご指摘のおかけで、もう一つ嫌いな表現に気がついた。「本人に選ばせる、本人にやらせる」という表現は、子ども(部下)の主体性を重視しているように思われがちなんだけど、「子どもに~させる」は、暗黙の裡に親(教師)を主語にし、子どもに一定の行動を強要している発想に基づいている。


私の表現なら「子どもが選ぶ」「子どもがやる」というふうに、子どもが主語になる。選ぶかどうか、やるかどうかも子ども次第、というニュアンスとなる。

「子どもに~させる」という表現は、親(教師)の思い通りに動かそうという傲慢さを感じて、私は嫌いなのだろう。


そういう傲慢さはともかくダメ、というのが私の考え方。まずは観察!そして仮説!本とか雑誌の情報は仮説を紡ぐヒントになるだけ!違うと思ったら本や雑誌の情報は無視!自分の観察から紡ぎ出された仮説を信じる!ともかく子どもの様子をよく観察することからしか始まらない!と思っています。

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