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短編小説「森の夢」


Date 2023.10.6
Place Japan


その場所は山を二つ、崖を三つ越えたところにあった。
その日、彼は年代物の山岳グッズを先輩から譲ってもらったことをきっかけに、久しく帰っていなかった祖父と祖母の家に行こうと思い立ったのだった。
前に行った時のことを思い出すと、かなり昔のことに感じられた。成人してから、実家を離れて海外赴任もありながら働いていたので、なかなかいく機会がなかったのだ。
実家の両親から、祖父母のことは時折きいていたし、両親が訪れると写真を送ってくれた。
彼には運転免許がないので、電車とバスを乗り継いで行くことにした。大体、2時間半がかかる。電車で、平野部を列島を横断するようにして進み、終点の二つ前の駅で、降り、そこから朝昼晩と1日に3つだけのバスに乗る。
昼のバスには、乗客はいなかった。
深く運転帽をかぶった中年の運転手と、彼を一人乗せて、「発車します」と声を上げた。
彼の中で、その微妙なイントネーションが何かを揺さぶった。
車窓から景色を見つめる。町内の停留所で、一人の腰の曲がったお婆さんが乗ってきた。
バスは、初めの頃は、なだらかな山みちを進み、道路も舗装されていて、紅葉が始まった山々の景色を見ているのは気持ちのいいものだった。
一つ目の山を越えるまで、ほとんど何も考えず、ただただ懐かしい車窓の景色を見ていた。子どものころ、夏になると両親に連れられ、必ず毎年きていたのだった。
そういえば、こんな紅葉の季節にもきたこともあったな。彼は、思い出していた。
長らく忘れていた、大きな山肌に木々が揺れる様に、目を張り、巨大な湖が見えてくる下り坂に、心が躍り、道路脇で何か食べている猿たちをじっと見つめていた少年時代の自分の心模様が、ありありと浮かぶのだった。
彼は気づいた時には咽び泣いていた。
止めようもない何かが、山々を抜けるその道を、無言の二人の乗り合いと進む、そのバスの中で、彼は、どうしようもなく涙を流していた。
彼は、自分の人生が途方もない徒労であるような気がしてきて、感動の中で、その美しい記憶の感覚と比べていかに今の自分の存在が見窄らしいものであろうかと、自分を責めずにはいられなくなった。
しかし、涙は止まらなかった。
二つ目の山の道は、徐々に、道も荒くなってきて、舗装されている部分にも木々の根っこが侵食し凸凹が多数生まれていた。
そうだ、ここから危なっかしい崖を何度か通り抜けるんだった。そのことを思い出しながら、気持ちがおさまり、涙は止まった。
車窓から見える山の姿は、先ほどと何一つ変わっていないかのように同じような木々で、同じような風が吹き、似たような青い空が広がっていた。
一つ目の崖のみちに入り込む、少し前の集落地帯で、腰の曲がったお婆さんがバスから降りた。彼女は運転手と二言三言大きな声で話をしていたが、ほとんど何を言ってるのかわからなかった。だがその訛りの響きに、彼はまた深い懐かしさと安堵の気持ちを感じずにはいられなかった。
「そうさ、あの夏の記憶がある。それを思い出した俺がいる。それでいいじゃないか。俺の人生の大半は灰色がかったものだったかもしれないが、あの夏の光が俺を照らしていることに気づいただけで、俺は大往生だ。」
急に、彼の中に肯定的な気持ちがわっと押し寄せてきて、晴々した気持ちでいた。
ここから先の崖の道が、とにかく恐かったことはよく覚えている。どうも記憶というのは不思議なものだ。恐かったものを具体的に覚えている割に、さっきまで感じていた美しい感覚は一体どこにしまわれていたんだろう。と、そう思った時、かつて何かでどこかで読んだ言葉が脳裏を掠めた。

「あなた自身の状態が、体験するものを決めているのです」

あ、今この言葉の意味が、体感されていると気がついた彼の口はあんぐりと開いたままになった。
「そうか、俺が、ずっと何かを恐れながら生きているから、何かを恐がる過去をなん度も思い出していたのか。あの美しい感覚もずっと俺の中にあったんだ。だが、俺自身がその記憶と共振する状態になかったんだ。」
彼のなかで、ずっと前に社内の研修で、女性の起業家が話していた景色が急に思い出された。彼女の言葉は力強く確信に満ちていることはわかる、だが、それは彼女が力強くなにかを信じる力があるから、自分とは違うと、俺には恐くてできないさ。と、思っている自分と、同時に、その瞬間、彼には観測できない意識の深層で、「そう、彼女だけが特別なんじゃない。俺にも何かできることがある。」と思っている自分もいたことに、数年の歳月を経て、今山の中で、その自己を認識している彼がいた。
彼にとって、それがおもわぬことであった。引っ込み思案の自分が、何か自らやりたいことに情熱を持って取り組むなんで想像もできなかったからだ。だが、今、彼には沸々と煮えたぎる何かが腹の底にあることを感じた。
両親の何気ない言葉、同級生たちの態度、会社の同僚との会話。
いくつものシーンがごちゃ混ぜになって彼の前に現れた。あの時も、あの時も、あの時も、なんで俺は自分が思っていることを言わなかったんだ!!
そう、俺自身が、自分で自分を引っ込み思案というラベルをつけたんじゃないか!
俺には言いたいことも感じていることも、考えていること、たくさんあったじゃないか。
それをそのままに言うということが、恐れの中に自分を置かないということではないのか。

彼に渦巻くこの気持ちが、怒涛の怒りの様相を帯びていることに気がつき、いかに自分が本当はこんなにも怒りを抱えていることに目を逸らしてきたのか、驚きすらもあった。

バスは、一つ目の崖のみちに差し迫っていた。
車一台がやっとのことで通れる道なので、大きく、座る位置が高いこのバスからは、窓の外を見ると、もう崖に落ちているんではないかという気分にさせられる景色が広がっていた。
彼は、それを思い出し、外を見るのはよしておこうと思った。
しかし、彼の中の怒りが、そんな彼にまた新たに炎をふりかける感覚があり、彼は車窓を眺めることにした。
この瞬間、ハッと思い出した。
「俺が最初にこの崖を通った時もこうして外を見た、それをさせたのは純然たる好奇心!怖いもの見たさではないか。」
ほとんど90度近くに見える絶壁の崖は恐かった。それは確かに生物としての記憶がものがたる安全を取ろうとする本能であったが、同時に、それを感じたい自分、そしてその先の景色を見てみたい自分が同時にいることにも気がついた。
恐怖だけじゃない。みてみたいんだ、その先の景色を。彼は、思った。
そして、彼は、まどを開けて、叫んだ。

「ヤッホー」

自分でも想像していないほどどでかい声がでた。その声に彼自身が驚き、大きな声をただ出すことの心地よさに身を置いた。
一息つかずに彼はもういちど、
「ヤッホー」といった。
深々と帽子を被った運転手は、何も言わず、運転に集中しているようだった。

窓から、風が吹き込んできた。その風は彼に再会を喜ぶダンスを踊っているかのように感じられた。
「ああ、俺はこの場所がとにかく好きだったんだな」彼はもう声に出して言っていた。
誰もいないバス内で、彼は、浮かぶこと、そのままに声に出して言っていた。
「小さい車で家族3人で、この道をいく。父さんは、昔からの慣れっこで、大して感慨もなくなれた手つきで運転していた。毎回、同じように母が、ああやだやだ、この道だけは勘弁して、と言いながら笑って車窓にビデオを回して、後で、家に帰ってきてそのシーンを人に見せては笑っているのをあれ、なんなんだろうと思った。けど、俺はそんな母に心強さを感じてたことも確かだ。」
彼は、思い出の中に、いくつもの層があり、無数の可能性が存在することに思い当たった。
思い出しているその景色は、本当にあった頃だろうか、本当に体験したこととはなんなのであろうか。
「過去もまた、変わる。」
また、誰かが言っていた言葉がちらつく。
「今が変わると、過去も変わる。本当に実際に書き換わるのだ。我々が昔、音楽室で見ていたベートーヴェンの眉間の皺はもっともっと深いものでなかったか。今、私たちがみるベートヴェンはかつてほどの苦悩を見受けられないのではないだろうか。」
世界中で第九が謳われる度に、ベートーヴェンは癒され、世界が癒されているのではないか。彼は急に思った。そしてなぜか覚えている第九のドイツ語の歌詞で、彼は歌い始めた。

Freude schöner Götterfunken, 歓喜、美しき神々の光よ
Tochter aus Elysium, 楽園の娘たちよ
Wir betreten feuertrunken, 私たちは情熱の中へ
Himmlische dein Heiligtum! 天の聖域に入っていく

Deine Zauber binden wieder, 魔法が私たちを再び一つにする 
Was die Mode streng geteilt; 私たちを引き裂いた時代とて
Alle Menschen werden Brüder, すべての人は兄弟となる
Wo dein sanfter Flügel weilt.: 柔らかな羽根に抱かれて

何度も何度も、その覚えているこのフレーズだけを繰り返し口ずさんだ。彼は、再び目から涙が流れていることにすら気が付かず、歌い続けた。
この曲を覚えたのは高校時代、適当に選んだ第二言語の授業だ。2年目に1年間だけ赴任してきた先生の授業が面白く、学期末の試験で、この曲を暗唱して歌えれば、筆記のテストが何点でも単位をくれるという突拍子もない提案をクラスにした先生だった。その先生はドイツの文化にくわしく、ある時はドイツの映画を数時間に渡り見るという授業が続いたり、カラヤンが指揮をする第九を全編じっくりと聞く時間もあった、その合間に文法や単語の授業が申し訳程度に行われた。映画や音楽を鑑賞する時間は、多くの同級生にとって退屈であり、半分以上の学生が突っ伏して眠っていた。その中で彼を含む数十名は、その音楽に耳を澄まし、映像に心を開いていた。
結局、学期末のテストで歌ったのは、彼ともう一人の音楽好きと、数学好きの生徒だけであった。みんなの前で歌うというのがセットとしてあったのもあり、先生の提案に乗ったのは、この3人だけだった。

もう幾度繰り返したかわからないほど、歓喜の歌を口ずさんでいるうちに、バスがプシューと音を立てて、停留所に停まった。

あ、もう終点の村に着いたかと、ハッと前方を見ると、人が乗ろうとしている。はて、こんなところから乗る人もいるのだろうか、ここはどのあたりだろう。辺りを見渡すと、林の中の道のようで、鬱蒼と茂る樹海が広がっている。一人かと思うと、ざわざわと声が聞こえてきて、数人が待合いの停留所にいるみたいだ。ハイキングの格好をしたどれも似たような蛍光色の山岳用のジャケットを着た壮年のグループが十人程がまずは乗ってきた。
その後に続いて、4人の外国人が乗ってきた。外国人の一群は、彼の座席のすぐ前に陣取った。一人は北欧系のがっしりとした背丈も高い女性、パーカーとジーパンというおそらくアメリカ育ちの黒人の男性、ほっそりとした体躯で、体感がしっかりしているアジア系の血の混ざった恐らくヨーロッパ育ちであろう女性、そしてもう一人は彼らの中で一番顔色が悪く、少し疲れているのっぽの白人の男性だ。
この取り合わせが一体どうして、こんな田舎の中の、さらに田舎。もはや人々がその村の存在を忘れかけ始めている場所に向かうバスに乗り合わせるとは不思議な感じがした。同時に、彼は、まあ、世の中には、山登り好きがいるし、日本の田舎町に魅力を感じる外国人のグループがいても不思議でない。してみると、彼らの4人も日本でたまたま出会ったバックパッカーが、一緒に日本の田舎を探検しているようにも見えなくない。
彼は、そんなふうに自分を納得させながらも、この停留所と、林の道を、祖父母の家に向かう時に通っていたのか今ひとつ、記憶に浮かばなかった。

彼らが、乗車してきたことで、車内はほとんど満席となった。

日本人のグループの女性たちは、みな互いに小さい声でおしゃべりに興じている。男性たちは、暗黙の了解があるように口をつくんでいる。
4人の外国人のグループは、互いに大きな声で英語で話している。
何かの縁だと思い、彼の前に座った外国人グループに声をかけてみた。
「Hi! I’m just wondering how come you guys here? 」
(こんにちは!どうして、ここにきたのかなあと思って)
「Yeah, we just love to hike around the unknown places.」
(そうよね。私たちは知らない土地のハイキングをするのが好きなのよ)
「We somtimes visit to Japan with 4 of us. We used be a classmates in high school in England」
(たまに、こうして4人で日本を訪ねるの。私たちはイギリスで高校時代を共にしたクラスメートなの)
「So we would take the middle ground of where we all are and get together there and go hiking and climb mountains for a week or two.」
(だから私たちは、みんながそれぞれいる場所の中間地点をとって、そこに集まって、ハイキングをしたり山を登ったりを1、2週間するんだ)
「Okay. I thought you were a backpacker who happened to meet in Japan.」
(そうですか、たまたま日本で出会ったバックパッカーなのかと)
「It's strange to see such fluent English speaking Japanese here.」
(こんな英語が流暢な日本人にここで会えるのも不思議な気がするね)
「Seeing old friends like this every few years is very restful.」
(数年に一度こうして旧友に会うというのは、とても心休まるものなんだ。)
「It's really great to have friends like that.」
(そんな友達がいるのは本当に素晴らしいことだね)
「You have some, surely」
(君にもいるだろう、きっと)
「Maybe so. But we may not have met for a long time.」
(そうかもしれない。けれど、随分長い間あってないかもしれない)
「Then you should definitely meet them.」
(それなら、ぜひ会ってみたらいいさ)

ひとしきり話した後、車内に、沈黙が訪れた。

歩き疲れたのか、眠り始めた人たちもいた。そろそろ最後の崖の道を通るはずなのだけれど、未だ、林の中の山道をバスは進んでいた。彼は少し気になってきて、運転手に聞いてみようと、席を立った。
座席の角についたとってにつかまりながら、彼は一歩一歩、揺れる車内を進んだ。
「あのお」と、運転席の後ろから声をかけ、一番前についた時、身を乗り出して運転席を見た。

「あっ!」と思わず彼は大きな声を出した。
運転手が座っているはずのその席には、巨大な長方形の木のふだが置いてあった。そこには、

「空即是色色相是空」

と、火で焼き書かれた文字が刻まれていた。
彼は混乱しながらも、ハンドルが自動運転の如く、道に沿って上手に動いていることに安堵を覚えた。
「え、運転手さんはどこへ行ったのですか」
と彼は、自分の声なのか、わからないところから聞こえる声で、なんでまたこんなことを聞いているんだと言ってから思っていた。
「ええ、運転手は、いますよ。ここに」
と巨大なお札の上についた白い紙がヒラヒラ揺れながら、そこから声が聞こえてきた。
「死んでしまったと言うことですか」
「いえ、そんなことはありません。いえ、むしろあなたが死んでしまったのかもしれませんゆえ。」
「僕は、生きてますよ。さっきまで、ほら、みんなとおしゃべりしていましたし」
「はあ、果てしてそうでございますかねええ」
嫌に湿っぽい口調だな。
彼は、ほら、と示さんばかりにさっき乗ってきたみんなの方を身体全体で向いた。
しかし、彼が見たのは、空っぽの座席だった。
「ほうら、あなた。さっきの、崖で落ちてしまって、本当は、運転手もろとも、一緒に死んでしまったのではないのですかい。ご覧の通り、運転席は、”ほうら”、木の札になっておりますゆえ」
彼は身震いしながら、そんなはずは、そんなはずはない。俺はさっき、このバスの中で、何かとても大切なことを思い出して、これから何か良きものを予感し、生きようとしていたのに。なんてことだ。俺は、まだ死んでなんかいないぞ。
「あなたがそう思うのは自由ですがねえ。はて運転手の寝不足がいけなかったのでしょうか」
「俺は信じないぞ。」
と彼が太く強い声でいったとその瞬間、バンッとバスが揺れたかと思うと、木の札がハンドルに頭をぶつけて、また同じ位置に戻った、
「信じる信じないの問題ではない」
急に木のふだから出てくる声色が、変わった。さっきまで、ぬめりとした嫌に湿っぽい声が、今度は、やけにはっきりと確信めいた声色だ。
「お主、はっきりと申す。目を覚ますことだ。永劫の迷いに身を委ねている暇などない。ともすれば先ほどのような妖怪の思う壺じゃぞ。」
「目を覚ますって言ったて、私は、ずっと目を覚ましてますよ。今朝からここに来るまで。」
「本当にそう思うのかね。君は、目が開いていたら目覚めていると」
「あなたは、悟りという意味での目覚めと言っているのですか」
「意味を問うな。君は今、確率ゼロの地点をフラフラと歩いている。そのことを自覚するのじゃ」
「確率ゼロ?」
「そうじゃ、いわば、何にでもなり得る世界の生まれる直前の状態じゃ。」
「君は、第九を歌いながら、この林の中に迷い込んだ。そして乗合の彼らもまた、いつぞやに、どこかで、あるいは、いまこのときに、無数の世界が観測されるひとときに、第九を歌いながら確率ゼロのこの場所に迷い込んだのよ。」
「では、さっきまでいた私の世界はどこへ行ってしまったのですか?」
「思い出してみろ。君が、何を望んでいたのか。この確率ゼロの地点から躍り出たその時に思い描いた景色を!全ては内にある。ゆえに、世界は君の鏡となっている。」
「あなたが何の話をしているのか、私にはわからない!私が何を望んでいたって?」
「もう時間はない。そもそも時間など存在しない」
「わしには聞こえた。君が高らかにその望みを歌っているのが」
急ブレーキがかかったのか、ぐっっと身体が押されるような感覚がしたと思うと、バスは止まった。彼は、なんとか倒れないように運転席脇の棒にしがみ付いた。止まったかと思うと、今度は、逆方向に向かって、一気に走り出した。スピードがどんどん早くなっている。一体どうしてこんな古びたバスにそんな力だあるのか、思いもよらなかった。何かエンジンによって作られた力でない磁力のようなもので、バスはギューンと引っ張られるようにして後ろに進んで行った。彼は、棒にしがみつき、跪いて、バスが暴走していくのを終えるの願うしかなかった。車窓の林の木々は、もう一本一本で見分けることもできない、うっすらと緑の模様と化していた。
そして、彼は気がついた。バスの中は、もう安定して、全く揺れてもいないことに。
しがみ付いていた棒から、手を離し、不思議な浮遊感を抱いたまま、彼は両の手のひらを見つめた。
「俺、ほんとに死んでしまったか?」
声は、伽藍堂としたバスの中にやけに響いた。
まだ、林の木々のうすら緑の模様が車窓に描かれ続けていた。
「おーーーーい」
と、遠くから声がしたと思うと、
「ずぶ濡れ小僧だぞい!」
威勢のいい声が車内に響いた。
「おいどん、まだまだ死んじゃいねえ。生死について言えば、おいらはエキスパートよ。どうぞお見知りおきを」
あたりを見渡してもずぶ濡れ小僧はいない。声だけがする。
「おーーい。こっちだぞい。」
見ると、張り紙の広告の中に描かれた滝の名所で滝行をする昔風の絵が喋っている。
いよいよ、彼は、本当にもう、祖父母の家には辿り着けないかもしれないと、思った。
「だから、おいどんは、まだ死んじゃいねえって!言うとるやないか。さっきのおっさんも言ってたやろ」
「せや、おいどん、望みをうたいな。おいらも力かすぜ」
彼は、もう、この場で起きていることについて、考えることをやめた。
その瞬間、眉間の皺が消えたベートヴェンが、詩人のシラーと肩をくんで、彼に微笑みかけたのが見えた気がした。彼は、自分の持てるすべての力を総動員して、全力で、歌を歌った。足の裏から電撃が走るように震えが彼の喉仏を捉えた時、それは歌となって世界に放たれた。

Freude schöner Götterfunken, 歓喜、美しき神々の光よ
Tochter aus Elysium, 楽園の娘たちよ
Wir betreten feuertrunken, 私たちは情熱の中へ
Himmlische dein Heiligtum! 天の聖域へいく

Deine Zauber binden wieder, 魔法が私たちを再び一つにする 
Was die Mode streng geteilt; 私たちを引き裂いた時代とて
Alle Menschen werden Brüder, すべての人は兄弟となる
Wo dein sanfter Flügel weilt.: 柔らかな羽根に抱かれて

何度も何度も、世界が見果てぬ光に包まれ、赤子が白日に抱かれ、すくすくと育ち、また赤子が生まれ、そしてすくすくと育ち、また赤子が生まれて、すくすくと育ち、永遠とも言えるその時間が、彼の内部に息づいていることを、歌を繰り返すたびに、感じた。
それは歓喜であった。生きていることの喜びであり、世界があることの奇跡に目を開くことだった。彼はいま木のお札の賢者がいった言葉の意味を意識が微かになりながら悟った。

確率ゼロの世界は、一瞬にして、すべてとなり、彼を、彼が望む世界の一点へと収束した。刹那にして一瞬、彼は、無限の宇宙が彼の目の前で、ゼロから無限、そして、一なる世界に収束する様を、コマ送りで見ているようにして、世界を見つめていた。

瞬間、世界は生まれ、瞬間、世界は死ぬ。

君は今、確率ゼロの地点をフラフラと歩いている。そのことを自覚するのじゃ。

歌の中に溶けていった彼に、
「天空の星空の瞬きを見るたびに、そのことを思い出せるように」
と親しげな影たちが耳元で囁いた。

目が覚めた時、彼は、バスの後部座席に座っていた。
深々と帽子を被った運転手が、「終点、終点です。」とアナウンスをした。
彼のことを待つ、祖父母の姿が、村の停留所の待合に見えた。会いたいと願う人に、会えることの奇跡に彼は胸打たれていた。夕焼けが黄金色にあたりを染めていた。昔から何一つ変わらない景色に、彼は自分が少年に戻ったように感じた。
「じいちゃん、ばあちゃん!ただいま!」

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