政治と道徳の分離の必要性について:官僚制を題材として

 政治制度は、保守的に、かつ道徳的な議論からは距離をとって考察されねばならない。昨今、キャリア官僚の退職者が増加している理由は、「天下り禁止」「内閣人事局の設置」であろう。天下り禁止によって激務であるにもかかわらず、職業上、成功した職業人生を歩んだ場合にもその生涯年収が大きく低下した。

 またキャリア官僚の職業上の魅力は、若手のうちから一国の政策立案に大きく関わることができる点にあったが、内閣人事局の設置といわゆる「政治主導」によって、その魅力は失われたようである。
 確かに、「天下り」という制度慣行は、様々な業界・領域を規制すべき官僚が、当の規制対象から金銭的な利益を得るという点で、政策形成過程を特定の方向に歪めるものであっただろう。だが、単に天下りを規制するだけでは、激務薄給の仕事を選ぶ人がいなくなるのは理の当然である。

 「政治主導」のために内閣人事局を設置するというやり方にも、明白な大きな問題がある。内閣官房から各省庁の人事を管理するというが、人事評価のための情報をどうやって入手するのか。人事評価は、組織の根幹であるにも関わらず、この点はほとんど考慮されなかったようである。
 安倍・菅政権は、愚かにも人事評価にあたって公安警察官僚(杉田和博氏)を用いていた。これでは、各省庁の官僚は公安警察による監視を受けているように感じ、萎縮する。政策立案のためには率直な議論が必要であるから、統治効率は絶対に低下する。
 
 現在の内閣人事局の運用については何も知らないが、人事権は各省庁の大臣が持つべきであろう。首相から任命された大臣が、省庁内の様々な事情に通じた上で、総合的な観点から人事権を行使するのが合理的である。
問題は、日本の大臣任命が、首相と派閥の力関係および派閥への報償として行われる点にある。これでは、首相は頻繁に内閣改造を行わざるを得ず、結果として大臣が各省庁内の事情に精通する時間を持てない。

 これらの事実から導かれることは、「天下り」を規制するならばその代わりにキャリア官僚の賃金を大幅に上げたり、「政治主導」のために人事権を政治セクターが持つならば、派閥の影響力をより一層、引き下げる方策が必要とされるという事である。
 
 現行のままキャリア官僚の賃金を抑えるならば、官僚の辞職が増えるだけならばまだしも、中長期的には各業界団や富豪による官僚の収賄さえ一般化しかねない。そうなっては事態は危機的となる。収賄が起きるくらいならば、天下りの方がよい。

 中央銀行の総裁や理事の給与は相応に高く設定されているが、これは中央銀行の意思決定プロセスをカネの影響力から遮断するためである。ならば、キャリア官僚についても同様の措置をとるのが合理的である。

 また、各省庁の大臣の人事権限を実質化するために派閥の影響力を低下させていくならば、現状で派閥が果たしている機能(例えば人材の発掘・育成機能)をどうやって代替するかをあわせて考えねばならない。党中央に政治学校を設置するなどの措置は最低限、必要となるだろう。

 いずれにせよ、「天下りはよくない!」「政治主導!」という方向性は、もしかすると正しいのかもしれないが(実はこれについても私は懐疑的であるが)、そうした一見したところ正しいスローガンを掲げて強行するだけでは、逆効果になるのが政治では普通のことであると認識すべきである。

 以上のことから、政治の領域では、人は「保守的」にならざるをえない。例えば、エドマンド・バークの不朽の名著『フランス革命についての省察』が訴えるのは、以上のような認識である。イデオロギーや道徳的な主張と、政治は、いったんは切り離して考えなければならないのである。

 いま述べたようなこと(政治の複雑性)は、実は専門的に政治学を学ばなくとも、大人ならば誰でも知っている常識からも言える。にもかかわらず、日本の政治制度改革のプロセスでは、ほとんど考慮されなかった。真剣な議論がなされた形跡もあまりない。一体全体、どうなっているのであろうか。
文化論は基本的に慎むべきなのであるが、これはやはり議論するという気風が日本社会から失われた結果ではないかと疑っている(戦後の日本にはあったような気がする)。すぐれた制度の設計や政策の立案のためには、率直な議論が絶対に必要である。

 もっと議論を!

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