政治における密教と顕教:覚書き

政治においては、議論が全く通じない分からず屋の敵が、既存の政治経済社会秩序に与える深刻な脅威があってはじめて、既存の秩序がかえって安定するという側面がある。

例えば、五百旗頭真『評伝 福田赳夫-戦後日本の繁栄と安定を求めて』で述べられていたように、日本の健康保険制度は、共産主義者という分からずやが、深刻な危険を体制に与えていたが故に整備されたという側面がある。

また、共産主義の脅威こそが第二次世界体制後の西側諸国での所得格差の拡大を抑制したという議論として、Sant’Anna and Weller (2020)"The Threat of Communism during the Cold War"といった論文もある。事柄の性質上、この論文のエビデンスの質は高くないが、各国の歴史家が同様の指摘をしてきたことが紹介されており、示唆に富む。

また、労働組合の組織化は、政治体制の安定性に大きく影響する格差の拡大を抑制するにあたって重要な機能を有するが、その組織化について、過激で無法な労働運動が逆説的に大きな効果を及ぼしたことは、本田一成『オルグ!オルグ!オルグ!』という本で述べられている。すなわち伝説的オルグの佐藤文男氏は、企業経営者と交渉・説得することで労組を立ち上げるのであるが、その手法を発明した経緯を次のように述懐している。ある労組結成のための説明会で、一人の労働者が反対した。何故か。

「「九州の大企業の下請けで働いていたが、共産党のオルグが、労組ができればよくなると言って組合をつくった。ところが、ストライキばかりしてついに会社が倒産した。そのとき、総評の指導者というのが来て、ひどいことを言っ」た。すなわち、「残念だが、君たち三五〇人が働く会社が倒産した。しかし、労働組合というものは革命のための学校なのだ。これから全国に組合をつくるリーダーが誕生したのだ。しっかりやっていこう」(p. 177)。これを聞いたオルグ、佐藤氏は、「枯れた井戸から水は汲めない」を実感し、まず経営者を説得・交渉する労組結成の戦略を練り上げ、多大な成果を上げた。確かに、会社が潰れるまでストライキを行う労働組合は、労働者のためになっているとは考えづらく、佐藤氏の言い分はもっともである。

他方で、話がそう単純ではないことも、『オルグ!オルグ!オルグ!』という本には書かれている。オルグ・佐藤氏が今治タオル工業組合の役員たちに労組結成を交渉する際、「変な組合ができて苦労する前に全繊同盟の組合ができてよかった」という評判をテコに、労組結成に導いたと書かれている(p. 194)。してみると、戦闘的で会社をつぶすことも厭わないような組合ができるとマズいという使用者側の認識が、穏健な佐藤氏のオルグ成功の条件になった、ということではないか?戦闘的な組合が存在することによる間接的な圧力が、常識的で穏健な組合の組織化を可能にしたのではないか?

また、自身が熱心な共産党員であった過去を持つ「政治」の達人、保守的な山崎正和氏もまた、最晩年の片山修『山崎正和の遺言』で(マイルドな)理想の重要性を語っているのも、同様の論理に則っていたと見ることができる。

近年の例で言えば、私はMeToo運動は社会に破壊的な悪影響をもたらすとする立場である。実際、MeToo運動が広まった韓国では、若い男女間での対立がとめどなく進行してしまった。これは、韓国の未来にとって致命的な結果をもたらすだろうと思う。しかし、お隣の韓国でフェミニズムが盛り上がった結果として、日本のフェミニズムが盛り上がったのも確かである。そして、それ自体は日本にとって利益となった可能性が高い。ハーシュマンの『離脱・発言・忠誠』を持ち出すまでもなく、日本人の女性が沈黙(広義の意味での離脱)を選ぶより、コストのかかる「発言」を選び、政治過程に明示的な影響力を行使する方が望ましいからである。つまり、MeToo運動自体は望ましくないが、日本はそれを利用して、望ましい結果を得ることができる。政治とは、かくも複雑なものなのだとため息が出る。

残る問題は、一定数の「過激な分からず屋」が存在して、圧力をかけることが全体の利益に資するとして、大人は、人生経験の不足した若者を、騙し、あるいはけしかけて、労多くして益の少ない政治運動に駆り立てるべきか?残念ながら、今のところこの問題に私は解答を見いだせていない・・・。

実直な若者を騙すのは、大人にとってそれほど難しいことではない。教育課程において、限られたエリートだけが知る密教と、大衆向けの顕教とを分ければ、若者を苦も無く騙すことができるというのは、大日本帝国の経験から明らかである。

大日本帝国の天皇制ファシズムをもたらしたのは、まさに密教/顕教論だった。「旧制高校の教育を回顧して,会田雄次は次のように述べている。  むかしの大学の理念といいますと,ちょうど密教みたいなもので,私なんかが高等学校にはいったとき,とたんに壬申の乱というのを習わされた。いままで習ったこともない壬申の乱について,それは天武天皇の策謀だ,万世一系などはぜんぶ誤りであるというようなことを,先生のほうが何の説明もことわりもなしにダーッと講義するわけですね。すると私どもがどう感じたかというと,自分はエリートだという意識です。大事をうちあけられた。自分はエリートだ,そしてそういう国家への奉仕感というか,つまり使命感です」「おれたちにはわかるけれどもほかのやつにわからしてはいけないんだという,思いあがりともいえますけれども,エリート意識ですね」 「このような教育体験は,鶴見俊輔らの指摘する「学問」と「教育」の差異における「顕教・密教」論としてとらえることができる」「近代日本の教育制度において,天皇制国家の建前と本音の部分を経験した特権的な少数のエリート層がいたのであった」(山本剛2012「旧制高等学校生徒の精神形成史研究」『早稲田大学大学院教育学研究科紀要別冊』20 号-1)。

恐らく、教育課程においては、少しは若者を「騙す」必要があるのだろう。物分かりがよいだけではない、理想主義的で潔癖な分からず屋がいなければ、変革あるいは現状維持のためのエネルギーさえも生まれてこない。長ずる過程で、遅かれ早かれ、とんでもなく手ごわい現実と衝突するのだ。

しかし、どのようにして、そしてどの程度まで、若者を「騙す」べきなのか?これは、その場所・その時の状況に応じて最適解は異なってくるような、「深慮(prudenceあるいはフロネーシス)」を行使すべき、最終的な解決には永遠に到達し得ない政治問題であり続けるだろうと思う。

そもそも、そうした若者を騙すことを含む教育内容をどこで議論するのか。明治国家は、その議論を秘密にした。福沢諭吉はその欺瞞を暴露しようとしたが、明治国家のデザイナーと呼ばれる井上毅の怒りを招いた。

「井上毅が特に福澤の著作に憤慨した理由は、明治国家の「人心収攬」装置の仕組みを、当の制御対象である国民に出版物で暴露したからである。いわば福澤の議論は国民の感情的統合の価値を生み出すメカニズムを解説することで、そこに批判的考察の契機をもちこんでしまっている。政府にとっては、「人心収攬」装置について、真剣にしらばくれ続けなければ明治国家そのものが喜劇になってしまう」(松田宏一朗『擬制の論理 自由の不安』p. 211)。

こうした論点を考えるとき、プラトン『法律』の末尾で論じられる「夜の会議」というアイディアはなかなか面白く、一考に値する。しかしもちろん、注意して制度を設計しなければ、単なる密教/顕教論に陥って、長期的には自滅的結果を招く。さて、どうしましょうか?







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