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【説明】上海列車事故がどのように発生したか

当考察シリーズの一覧はこちらです。
核心・上海列車事故|上海列車事故の備忘録|note

 高知学芸高校(高知県高知市)の生徒と教員が巻き込まれた「上海列車事故」(1988年3月24日)についての考察をお読みいただくうえで、そもそもこの事故がどのような形での衝突事故だったのかということがあまり知られていない。Wikipediaの記事(上海列車事故 - Wikipedia)を参照されるのもよいが、事故の生徒遺族が学校側を訴えた民事訴訟の判決文が非常に詳細に当時の模様を伝えていることから、一部を引用する形で説明に代えさせていただきたい。

引用元:高知地方裁判所 平成元年(ワ)78号 判決 - 大判例 (minorusan.net)

(三) 引率教員らは、翌三月二四日朝、明神洋介添乗員から蘇州駅で乗車する列車が、午後一時二〇分発の列車(一一九次列車)から午後零時四〇分発の列車(三一一次列車)に変更になつたことを聞いたが、杭州着の時間が早くなることはむしろ好ましいとして、別段問題とはしなかつた。

朝食後、予定の九時よりも少し早めにバスで出発し、中国古代ファッションショーを見学し、次に北寺塔を経て市内のレストランで昼食をした後、蘇州駅へ向かつた。

そして、蘇州駅から三一一次列車の最後尾に連結された専用軟座車三両(前から一号車、二号車、三号車)に分乗した。

各車両には、生徒の他一号車には、坂本、鵜川、小松各教諭と、明神添乗員、二号車には羽方、川添各教諭と、松田圭二、中山博子各添乗員、三号車には、狩野、尾崎、山下、中川各教諭、西城医師、宗石カメラマンがそれぞれ分乗した。

5  本件事故の発生と経緯

(一) 三一一次列車は、蘇州から杭州への経路として、一旦、上海方向に京滬線を真如駅に至り、そこで逆方向にスイッチバックして、真如駅から京滬線を戻つて外環線に入り、匡巷駅を経て、新南線を経由し、上海・杭州を結ぶ滬杭線に入つて、杭州へ向かう予定であつた。なお、新南線、外環線は、いずれも滬杭線の運行本数が増え、踏切による交通渋滞が起こるのを解消するためにできたバイパス線である。

そして、二班の乗車した三一一次列車は、午後一時四〇分ころ、真如駅に到着し、そこで、スイッチバックし、それまでの最後尾に杭州機関区に属するND二〇一--九〇号機関車が連結された。そして、三一一次列車は、同駅からは右機関車に牽引され、列車の先頭から機関車、三号車、二号車、一号車の順となり、午後二時七分ころ真如駅を出発し、外環線に入つて匡巷駅に向かつた。

匡巷駅では、外環線が単線であることから、対向の二〇八次列車と行き違うために、三一一次列車が午後二時一八分に駅の待避線(側線)で停車し、二〇八次列車が通過した後で本線区間に戻る予定であり、右の列車運行は、信号機により制御されていた。

そして、三一一次列車が匡巷駅に入るときの下り予告信号機は青で、構内信号機は黄色の信号が二つ表示され、列車の待避線停車が許されていた。

このような状況下で、三一一次列車を運転していた周子牛運転士、張国隆助手は、時速四〇キロで匡巷駅(駅の長さ六三〇メートル)の待避線に入つたが、匡巷駅ホームの中心部を通過する段階でも、速度を落とすことなく進行し、所定の位置で停車せずに引き続き前進を続け、赤信号を表示する下り出発信号機を見落としてそのまま暴進し、警戒標識を越え、ポイントを壊し、本件区間内に侵入した。

その時、右運転士らは、対向の二〇八次列車が接近してくるのを発見し、慌てて制動機を操作したが、間に合わず、午後二時一九分匡巷駅の上り構内信号機から二二・九メートル離れた地点で二〇八次列車と正面衝突した。

(二) 新聞では、本件事故の原因について、当初、ブレーキ系統の不良が伝えられたが、中国国務院の決定で全国安全生産委員会から派遣された事故調査グループが、昭和六三年三月から四月にかけて行つた調査(乙二の1、2)によれば、三一一次列車の時速メーターの指針が毎時一一キロで止まつており、衝突時は右の速度であつたと考えられること、機関車及び一ないし四号車の各車両踏面(車輪とレールとの接面)には著しい擦傷による帯状痕跡があり、また、車輪のブレーキ部分にも車輪と制輪子の双方に強烈な摩擦による過熱痕跡があつたこと、二号車と四号車の制輪子の痕跡を鑑定すると新しいものであつたこと、車両間を連結するブレーキ弁はすべて開通の状態にあつたこと、ブレーキの性能は正常で、機関車のブレーキ管に対する送風試験の結果、制動用メインブレーキ管の通風状態は良好であつたこと等から、専ら、運転士の信号見落としが事故の原因であると判断され、右運転士らの刑事裁判でも、ブレーキの故障が原因であるとする被告人らの主張は採用されなかつた。

(三) 本件事故の原因は、右のように三一一次列車運転士らの信号見落としによるものであるが、原告らは、これに加えてブレーキ系統の不良を主張し、交通評論家の報告書等では、現場写真からみて二〇八次列車は、客車がその編成ごとに機関車に乗り上げているのに対し、三一一次列車は、前部三両の増結車両が四両目以下の基本編成車両に押しつぶされたような形になつていることから、基本編成車両がノーブレーキの状態であつた可能性があり、増結車両と基本編成車両の制動管通気が不良であつたと思われること、平成元年の現地調査の際も車両連結時の制動管通気テストが行われた様子がなかつたこと、本件のような重大な損傷の場合は、車両の各部分は著しく破損しており、事故後に制動管通気が正常であつたことを証明することは甚だ困難であり、一〇日足らずの調査では不可能であること等を指摘する。

しかし、前記のように事故調査グループの事故報告では、基本編成車両の先頭となる四両目の車両踏面に著しい擦傷による帯状痕跡があり、同車両の制輪子には新しい過熱痕跡があること等が報告されていることに照らして、四両目以降の車両がノーブレーキの状態であつたとは認められない。ただし、緊急ブレーキをかけた場合、前部から順次利き、全車両の制動が利くまでに五、六秒かかることから、後部車両については、制動が遅れた可能性はある。

(四) 本件事故の衝突の衝撃によつて、二号車と三号車は上下に交錯し、二号車前部の上に三号車後部が乗り上げる形となつた。

そして、先頭の三号車内では、左窓外に二号車の左側面が急接近し、前方の天井の一部が割れて垂れ下がり、床の中央部が「へ」の字に盛り上がり、車両内は、天井から発泡材が降り落ち、床には割れた茶碗や手荷物が散乱し、前後の出入口は閉じたまま動かず、窓も厚い二重ガラスで固定されたまま開閉不能であつた。また、二号車では、三号車の車体に潰される形で前部の屋根が落ち、右側面は大破し、車両後部では右側面が押し潰されて、アコーディオンの蛇腹のような形状の残骸になり、一号車からの入口も、車両の構造物や座席などで通行不可能な状況となつた。

(五) そして、本件事故により、D組全員とA組の一部合計約六〇名が乗車していた二号車を中心に多数の死者、負傷者が生じ、最終的には本件修学旅行二班参加者のうち、本件事故による死亡者は二八名(現地で死亡した生徒二六名、教員一名、重症で帰国後死亡した生徒一名)、負傷者は七日以上の入院者二四名を含む三六名であつた。なお、本件事故により、二〇八次列車検査係一名が死亡し、中国人乗客も相当数が負傷した。

引率教員らは、死亡した川添教諭の他、羽方教諭が右鎖骨・肩胛骨骨折(全治六週間)、中川教諭が右股臼骸部骨折等(同四カ月)、狩野教諭が腰椎捻挫等(同一カ月)、山下教諭が右下腿打撲(同三週間)、尾崎教諭が頚部捻挫(同一週間)の各傷害を負つた。

引用以上。

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