コロナへの恨みを抱く前に、石牟礼道子に学びたい

コロナが猛威を振るう中、「コロナに打ち勝とう!」という言葉をよく耳にする。

人類の敗因は?勝つための方法は?これは戦争だ!

勝ち負けの論理で、世界が動いていくのが、とてもつらく、とても不自然な気がしてしまう。もちろん亡くなった方もいるし、現在苦しんでいる人もいる。ぼくもコロナのせいで、叔父の葬式のために帰省できなかった。

多くの人が、傷つき、悲しみ、向けられない恨みをコロナに向ける。

でも、

コロナ悪!絶滅させろ!勝て!

という「言葉」には違和感を覚えてしまう。これは一体なんなのだろう。



約50年前にある病に向き合った作家がいた。
石牟礼道子という人だ。

四大公害病の一つ、水俣病の現実を描いた『苦海浄土』という本を書いた。水俣病に苦しみ、言葉までも奪われた患者たちの声 に耳を傾け、言葉にした。

第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、「いまなお苦しんでいる患者のことを考えるともらう気になれない」と辞退したという。

水俣病が公害として認定されたのは1968年。しかしながら、1956年にはすでに熊本県水俣市で原因不明の病続発が保健所に通報されていた。12年ものあいだ、「水俣病」は存在しないものとされていた。

化学工業メーカーである「チッソ」が、有機水銀を含んだ工場廃液を垂れ流したことが原因となり、汚染された魚介類を食べた住民たちに、手足のしびれや視野狭窄などの神経系疾患が生じた。元の体に戻せと泣き叫ぶ女性や生まれながらに歩くことも言葉を発することもできない少年。

石牟礼は「これを書かずには死なれんと思った」と晩年に語った。



コロナと水俣病は全く違う。
水俣病は原因が化学工業メーカーにある。つまり、人類にある。人類の科学への慢心によって生まれた大きな罪だ。だから、憎むべき相手がいる。チッソであり、科学文明だ。

では、『苦海浄土』が憎しみに溢れた、どす黒い作品かと言うと、まったく違う。もちろん憎しみも恨みもあった。しかしながら、それだけにしなかった。恨みの先に患者たちが見た世界を描いた。

詩人の若松英輔は、こんな石牟礼道子の姿について解説する際に「この作品には『苦海浄土』という作品全体を象徴する次のような一節が記されています」と以下の文章を引用している。(NHK「100分de名著」より)

「きよ子は手も足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて、わが身を縛っておりましたが、見るのも辛うして。

 それがあなた、死にました年でしたが、桜の花の散ります頃に。私がちょっと留守をしとりましたら、縁側に転げ出て、縁から落ちて、地面に這うとりましたですよ。たまがって駆け寄りましたら、かなわん指で、桜の花びらば拾おうとしよりましたです。曲った指で地面ににじりつけて、肘から血ぃ出して、『おかしゃん、はなば』ちゅうて、花びらば指すとですもんね。花もあなた、かわいそうに、地面ににじりつけられて。

 何の恨みも言わじゃった嫁入り前の娘が、たった一枚の桜の花びらば拾うのが、望みでした。それであなたにお願いですが、文(ふみ)ば、チッソの方々に、書いて下さいませんか。いや、世間の方々に。桜の時期に、花びらば一枚、きよ子のかわりに、拾うてやっては下さいませんでしょうか。花の供養に」
(「花の文を─寄る辺なき魂の祈り」『中央公論』2013年1月号)

花びらに必死に手をのばすきよ子。恨みもあるだろうけれど、きよ子が「桜の美しさ」に手をのばす様子を慈しみをもって、書いている。

これを読むたびに泣いてしまう。それがチッソへの恨みでも、きよ子への可愛そうな感情でもなく、世界はこんなにも美しい、人間はこんなにも愛に溢れているのか、という事実への涙なのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

もう一つ、若松英輔が紹介している文章がある。

「う、うち、は、く、口が、良う、も、もとら、ん。案じ、加え、て聴いて、はいよ。う、海の上、は、ほ、ほん、に、よかった」
(第三章「ゆき女きき書」)

水俣病は言葉の自由を奪うために、このような語り方になるそうだが、伝えたかったのは、「自分はもう流暢に話すことができないから、申し訳ないがよく耳を傾けて聞いて欲しい。海の上で過ごした日々は、本当に幸せだった」と。

ここでも海の美しさ、そんな日々の幸せを語っている。

不条理な病を押し付けられ、もとに戻ることも、よくなることもできない。恨む対象は明確にもかかわらず、なぜこれほどまでに優しくなれるのだろう。

若松はこう綴る。

石牟礼が、作品を通じて伝えたいと願ったのも恨みの連鎖ではありませんでした。当然ですが恨みがないはずはありません。むしろ、筆舌に尽くし難い恨みがある。しかし、それとは別な場所に患者たちはこの世界への、あるいは隣人たちへの情愛を深めていったのです

ぼくはきっとこんな風に思えない。もし身近な人が水俣病になったら、恨みで逆上するだろう。

でも、石牟礼道子は違っていた。自分が生まれ育った地で、これほどまでに悲惨なことを目にしながら、美しさや慈しみや優しさを書いた。そこには鎮魂があり、情愛の眼差しがあった。



石牟礼道子には『椿の海の記』という作品がある。冒頭はこうだ。

春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる。海の香りとそれはせめぎあい、不知火海沿岸は朝あけの靄が立つ。朝陽が、そのような靄をこうこうと染めあげながらのぼり出すと、光の奥からやさしい海があらわれる。(『椿の海の記』より)



コロナへの不安は続く。この先どうなるかもわからない。春の花々も大地の匂いもやさしい海も遠くなった。でも、#STAY HOMEが続く日々のなかで、石牟礼道子の思いを忘れないでいたい。


(参考)
NHKテキスト|熾烈なまでに悲し、どこまでも美しい言葉
http://textview.jp/post/culture/26113


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