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社会への恨みは家庭環境の投影か

社会への不満、恨み、つらみっていうのは、その人の育った子供のころの家族の投影なのかもしれないなと思う。
AA関係の方から手紙が送られてきた。知り合って間もない方だがともかく恨みつらみが激しい。刑務官、裁判システム、刑務所、別れた伴侶、幼少期の親、コロナに出歩く大阪の人間たち……おしなべて社会というものに向けられる敵意を読んでいると、こちらも疲れてしまう。建設的批判と感情的恨みは違う。別物だ。建設的批判とは、現行のシステムがあること自体を認めつつ、自分はどう思うかを距離を取って位置づけることだ。だが感情的な恨みは自分の中から出てくるものだから泉の湧き水のように際限がない。おそらくコロナで人出が減ったとニュースが流れたら、この方は別のことにいら立ち、また恨むことに時間を費やすのだろう。
ここからは私の想いになるが、批判の背後に「自分は悪くない」という主張を根深く言いたい欲求があるように思う。
社会が悪いと言い続けるのは、あくまでその人にとっての「自分は悪くない」裏どりのようなもの。では本当に自分は悪くないのか、と思っているかと言うと、急に段落が変わって「自分なんてもう死にたい」と極論に走ってしまうように、中間がないのだ。ものすごく右にカーブしたかと思うといきなり左に真横にハンドルを切るような思考。これはいったいどこで癖づいたのだろう。

「自分は悪くない」と一生懸命謳っていながら、本当は「全部、自分が悪い」と思っているんだろうなあと勘繰ってしまう。子供のとき親の逆鱗に触れたのもしつけが厳しかったのも、本当は自分が悪かったからなんだって、思っているけど言ったら恥ずかしいから言わない。だけど自分が悪かったこと(と思わされたこと)をまともに直視するのは怖い。こんなにやってられない不満の高まる現実の環境で、その責任が自分にあったと気づいた瞬間、崩れ落ちてしまうようなインパクトがあるのだろう。手紙を読みながら、なぜこの方は「何かをしないと」自分の価値を認められないのか疑問に思ってしまった。つまり「自分はこれをやった」「これもやった」「こんなことまでやった」……「のに」と続くのだ。行動(doing)の結果として得られた報酬が割に合わないことに悩むのは、存在(being)に価値を認められないからこそだろう。だから結果を出してもきりがないのだ。何をやったってbeingへの強い無価値観がある限り、期待するだけに応えられるだけの報酬は来るわけがない。いわば、無価値観の底なし沼にハマっているのである。

読みながら疑問に思っていたのは、なぜ私はそうした社会をほっこり見守ることができているのだろうかということだった。むしろ手紙によってあぶり出されたのはそこだ。機能不全家族に育ったことなど私かて同じだ。今の社会が変だな思うことはあるし菅政権も好きではないが、かといってそのすべてが自分の不幸を招いているとは思わない。外面のコンフリクトと内面のコンフリクトはまた別物である。私個人の生活の気分と社会への気分は別物と脳内に収納されている。

家族関係というのは、第一次的に獲得する社会を見る目の相似形になる。持論だがそれは20歳あたりで一度凝り固まると思っている。家族が「この世は絶望的で希望もなく生きるに値しませんよ」と見せていたら、その人の世界は20歳ころそのように見え始める。「そんな世界」に一人立ちを余儀なくされるとき、社会は親にとって代わる。結果大人になって世界をただ疲弊して生きるだけに費やし、恨みつらみの対象は社会や社会で出会う人間、究極視界に入るものすべてに発展することが起きていく。
反対に20歳ころまでに「この世はそこそこ希望があって美しく、そこそこ生きるに値する世界ですよ」と見せられていれば、20歳過ぎてもそのような世界に身を置きそこそこ楽しみを見出して生きていくことになる。言葉にすれば単純だが、この二つの差はその後の一生を決定づけることになる根深さがある。

では、そのような親に恵まれなかった子供は一生苦し紛れに生きていくのだろうか。私はそうは思わない。別に親など何人いてもいいのだ。シンボルとしての親的存在が新たに見出せるかもしれないし、大人になれば自分で自分をじっくり教育していくことだってできる。生んだ親に見せられた世界と、生んでない他者(あるいは自分)に見せられた世界、どちらを選ぶのか。これは究極の選択だ。
個人の内省を社会への恨みに投影しても、短所ばかりの目利きになってしまいそれだけで人生は暗幕が張られた恨むだけの世界になりおもしろくない。
本当にその不満は社会のせいなのだろうか。苦しいのはわかるしその中で死にたくなるのもわかるけれど、自分の未熟さを本当に一番わかっているのは「死にたい」にメーターが切られるときの渦中の自分だろう。恨みから死にたい、に行くまでのスピード感の間に、自分に対するうなだれるまでの無価値観がそこにあるはずだ。

この世に傷ついていない人間などいない。誰だって深く傷ついている。乗り越えたから傷ついていないように見えるだけ。本当のところ世の中全員が、いじめだの学校だの親だのなんだのに傷ついて成長し、傷つく、克服するの繰り返しの中で自分への天与の価値のようなものを体得していく。たったそれだけの差だが、そこに目を開くか否かの差はとてつもなく大きい。誤解を恐れずに言えば、傷ついたままでいる人だけが、人を傷つけることができる。

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