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できることなら、上手いマジックに対する欲望と憧れを捨てたい。

《もしかしたら、マジックは上手になってはいけないのではないか》

 こうした考えはたびたび、わたしを不安にさせる。シャワーを浴びている時間や、布団に潜っている短い時間に。短いが、この積み重ねられた長い時間はわたしを常に悩ませ続けている。

 こういう考えはマジックに対する『逃げ』なのではないか? 『おまえはマジックが下手だからそういうふうに自分に言い聞かせてるんだ』と、わたしの中にあるもう一人のマジック好きがそれを否定してきた。

 しかし、やはり『上手なマジックには致命的な欠点がある』という考えが拭い去れない。

 わたしは、『上手』と感じさせる技法をダンボールに書いてボーっと眺めた。共通点がある(ような気がする)。

 全てが『丁寧』さと『精密さ』が伴う技法なのだ。独特な癖のある過剰な『丁寧さ』が上手さと修練を感じさせる。この丁寧さには『作業をしているような機械的な動き』が伴う。工場で同じ動作を繰り返して習得した手慣れた作業員を感じさせる動き。この一種独特な動作は『うまさ』を感じさせる。この上手さは『技術』に対する感動だ。

 わたしはマジックが好きだから、そういう鍛錬によって習得された動作に対する憧れは確かにある。しかし、得体の知れないものを見た時に抱く、常識が覆るような感動ではない。

 マジックが真に発揮できる力はもっと人の心を揺さぶるものなんじゃないか! と、そんな綺麗事を信じているもう一人のわたしがいる。そうだ。魔法は魔法使いの手によって、起こって欲しい。わたしが初めてマジックを見た時に感じたのはそれだった。あの時に見た銀色のボールは本当に浮いたのだ。あれは、うまいことをして浮いていたんじゃない。

 わたしは自分の憧れる上手いマジックを捨てていく。わたしはすごい人を目指さない。

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