見出し画像

「何者かにならないといけない気がする」という呪縛

「自分は特別に違いない。」
という思いがあります。

「可能性」というやつです。

で、「何かしら」とは何かしら?
ということで、模索をします。

「特別さ」を発揮しようとしても
ちっとも特別に思えるような実績が作れません。

それどころか「特別」な多くの人々を見て
ますます自分の特別さがかすんでいくばかり。

さらに
世の中にはたくさん

「自分の好きなことをやって生きていく」
「起業して自分らしく生きる」
「一歩踏み出して壁を超える」

などとといった
「特別な」人たちによる啓発の言葉があちこちに散りばめられていて

しかも説得力に溢れ、心底納得するから


グウの音も出ない。


だから考える。

「とっととゴールを決めて
そこに向かってひた走る勇気をもつんだアタシ。」

と発破かけてみる。

いや、まてよ。
ゴールがよくわからない。

とりあえず決めちゃうってこと?
決めるって、何?

―よし、決めたぞ。
学校を作ろう。HSPでも気楽に行ける学校を!

どうやって?

「いやいや、そんないきなり大きなことじゃなくて、もっと身近で現実的なところからスタートするんだよ。」
と、いつか聞いた有名な人のの「啓発的な動画」の一説を思い出し、自分につっこんでみる。

ますます
自分の「特別」と現実との格差は広がっていきます。

焦る。


(―このまま死に向かっていくのか?)


―と。


でも、考えてみてください。


それの何がいけないというんだ?

特別ありたいという気持ちの先には
特別であったら幸福であるという盲信がある。

特別を発揮して幸福になりたいがために
特別でない自分をどうやったら特別に持っていけるか奮闘して

結果的に
「ぜんぜん特別じゃないし」
という痛みを取りにいっているという矛盾を生んでいるわけです。

考えてみればわかるけど、それはちっとも幸福ではないわけです。

夫婦間の問題ともよく似ていて
結局、過度の期待を続けている限り

改善のためにめっちゃ頑張っても

イタい現実に、刺され続けるという現象を生むことになるわけです。

「がんばれば報われる」
という言葉は、小学校あたりで先生から言われたりするけど

これって
「明確で手近なゴールがすでにあるわけではない何人かの人」

「かつてがんばって報われた経験があるけど今は違っているという人」
にとっては

「結果を期待して、出来ない現実に打ちのめされ続ける人生を送る」

ということと紙一重になることがある―


ということを踏まえた上で

あらためて幸福ってことを考えると

「こんなもんで、いっか!」

っていうふうに

今日の自分の
あまりにも地味で変わりばえしない時間を

ひょうひょうと受け入れることこそが
最強なんじゃないか!?

って思ったりします。

ちなみにこの

「自分は特別」

っていう感覚は

人間の生まれつきの本能によるもので
あくまで生きるための生物的戦略

ってことです。

というわけで、根拠は思ったより薄い。


―でもさ。

「それで、いいじゃないの。」

って思うわけです。


まじで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?