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天国と地獄、明暗を分ける旅行の境界線と3つの条件。

今年の夏、母と祖母を連れて上高地を訪れた。

空気はどこまでも澄んでいて、同時に心地の良い湿度であった。さすが避暑地と言わんばかりの気候にうっとりしながら、喉を通るそれも、体をすり抜けていくそれも、全てが柔らかく溶け合うような心地よさを纏っていた。

大都会東京から逃避行してきた私としては「これが本来、人間が吸うべき空気の練度だ」なんて冗談を頭に浮かべながら、その土地に体が馴染む感覚に浸っていた。

「良いところだねえ」

80を超えた祖母が笑顔をこぼしながら、言葉を発した。それに続いて母も「本当に気持ちいいねえ」と言葉で応えた。この二人との旅行は随分と久しぶりの気がしたが、上高地に足を下ろした瞬間、わたしはこの旅行が良いものになるなという確信めいた何かを掴んでいた。

今日はそんな旅行という「天国にも地獄にもなりうる行為」について、少し思考を巡らせてみようと思う。

旅の発端

2022年の5月頃、私は母と祖母を誘った家族旅行プランを練っていた。

80歳を過ぎた旅行好きの祖母は年々友人が減っていき、なかなか旅行に行く機会を逃していたし、フットワークが鬼のように軽い母にもここ数年は旅に連れ出してもらっていたので、私はそのお礼を兼ねての旅行を計画していたのだ。

二人とも既に夫を亡くしているので、今回は気ままな女3人旅だ。

しかし成人してから3K(キツイ・汚い・危険)が揃う旅ほど興奮してしまう病にかかっていた私は必然的に一人旅が基本となっていた。ゆえに知識の偏りが激しく、全く今回のターゲットである二人をもてなす経験が欠落している中で、このプランニングは私を随分と悩ませた。

苦肉の結果「山の麓にあるホテルならちょっと冒険しつつも綺麗で、私も楽しいのでは」という、もてなすつもりなのか自分が行きたいだけなのかその塩梅が怪しいが、どうにか捻り出したプラン結果が「上高地」であった。

神々しい、上高地の明神池。

本当は昨年、富山県の立山連峰の紅葉に連れて行こうと思っていた。しかしわたしが夏から秋にかけて仕事の立て込み具合が重なってしまったため、やむなくその話は流れてしまった。続けて年明けに私の妊娠が発覚したので「今年の夏を逃したらしばらく行けないかも」といういい焦りを機に、私は親子3世代家族旅行 in 上高地を決行したのだった。

誘えば二人は二つ返事で快諾し、あっという間に上高地旅行当日を迎えた。私の心はとても軽く、久々の山を観れるということもあって内心は子供が踊るようにはしゃいでいた。

楽しい旅行と、苦痛な旅行の違い

ところで皆さんは「家族旅行」と聞いて、どんなイメージをするだろうか。

私が恵まれていたのか、両親の教育の賜物なのか、はたまた何も考えていないのか。私は家族旅行と聞くと「気ままで、気を使わなくてよくて、最高に楽しいもの」という大変お気楽なイメージがある。

子供の頃から両親だけでなく祖父母も連れての旅行は毎年のように出掛けていて、よっぽど受験や部活などが被らない限りは子供たちも反骨することなく自ら参加するような一家であった。それは大学生になっても社会人になっても変わらず、仕事などの関係で不参加の回数は増えたもののベースとしては「誘われれば行きたい」が根底にあるように思えた。

しかし、ふと顔を上げてみると周りは「家族旅行なんて行きたくない」「ましてや親や祖父母との旅行なんて面倒極まりない」という意見は全くもって珍しくないことに気づいた。というか、そちらの方が世の中で言うとマジョリティであるようにさえ思えた。

そしてこれは家族に限らず、友人や知人間でも間々発生しているように思う。

そんなありふれた旅行というものを「天国」と「地獄」に分けるものは一体何なのか、今日はその価値観の考察について個人的な思考を巡らせてみたいと思う。

明暗を分ける3つの条件

ビジネスに限らず、こういう類の話の場合は理想を語るのではなく悪い例、つまりかなりの確率で失敗に終わる必敗パターンを洗い出してみる方が再現性が高いことが多い。

よって今回もつまらない旅行になってしまう「3つの条件」について考察していき、続けてそれを解消する方向を模索してみることとする。

1. ゴールがズレている

最もよくあるのが、旅行のゴールがずれているというパターンではないだろうか。例えばこれは親が「家族で時間を過ごすこと自体が大事」と思っているのに対し、子供側が「日頃は味わえない、新しい経験を積みたい」と思っている場合などに当てはまる(ちなみにこれは主張が逆でも成立する)

親は「揃って目的地に行く」もしくは「そのプランニングをする」時点で目的の大部分が達成されており、極端にいえば旅先についた後の観光地で売られているものがありふれた物であったり、ホテルや食事のグレードがイマイチだったとしてもあまり気にならない。繰り返しになるが目的は「行く」時点で概ね達成されているので、むしろ当初の予算内でそれらを達成することの方が価値を感じるかもしれない。

それに対し、好奇心が旺盛な子供は「見たことがある風景」や「テンプレ化された観光産業」にゲンナリし、自分の休みを差し出したにも関わらず目新たらしいものがないことに肩を落とすのだ。

幼少期の頃であればまだ新鮮味が見つけやすかったり、費用を親が出していることも多いので目を瞑る機会が増えるが、思春期を過ぎたりましてや社会人になった後では自分で費用を出すことも多いので「出した金銭に対して得たものが少ない」「自分ならこんな選択はしない」といった憤りを感じる人もいるだろう。

ちなみにこれは家族旅行に限った話ではなく、恋人や友人との旅行でも同様の問題が起こる。

友人Aは「美味しいものを食べ尽くす」ことが目的であるのに対し、友人Bは「見たこともない景色を堪能したい」と思っているかもしれないし、はたまた友人Cは「品質が保証されたきれいなホテルで、三人で人生を語り明かしたい」と思っているかもしれない。この三人がもし一緒に旅行に出かけたら、1日目にしてギスギスすることは想像に容易いだろう。

このように旅行とひと口に言っても、実態は個人や世代ごとに「癒されたい」「刺激が欲しい」「印象的な思い出を作りたい」「既視感のあるものは避けたい」など様々な評価の尺度がある。必然的に「旅行」というのは人数が増えるに比例して、参加者全員の満足度を達成していく難易度が増してくのは想像にたやすいだろう。

またこれは親友であろうと家族であろうと大差はなく、あくまで個人と個人の集合体であるため目的を完全にすり合わせることはやはり難しい。

となると、やはり誰かと旅行に行く際に最も幸せになりやすいのは「一緒に旅行する機会を持つこと自体が重要」と思っている、いわゆる「何でも良いけど、お前がとがええねん」マインドのパターンである。

双方がそう思うことができれば、旅行に行くと決まった時点でほとんどのゴールが達成されており、旅先の細かい品質やイベントは「おまけ」であって大きな評価要因にならない。

旅先の失敗も成功も含めて「あんなこともあったね」という思い出話になれば丸儲け。という旅行は幸せを満足度を感じやすい1つの構成材料であるように思うが、ここまでの高マッチング相手を見つけるのは奇跡と言っても差し支えないレベルであり、一生のうちで数人見つかれば御の字だと思う。

2. 美的感覚がズレている

二つ目は完全に私の独断と偏見なのだが、実は条件1と肩を張れると思うぐらい問題になりやすいのがこの「美的感覚」だと思う。

例えば「虫が出るキャンプなんて死んでも嫌、空調の整ったホテルが良い」という人と「形式化されたホテルは凡庸で退屈、むしろ野宿の方がエキサイティング」という人が一緒に旅行をするとは思えないだろう。

これは極端に思えるかもしれないが、実態はよりグレーで曖昧あるから非常に厄介だ。

例えばどちらも「キャンプが好き!」という友人2名がいたとする。なんだ、アウトドア派なのか!とタカを括っていざ三人で現地に向かう。すると友人Aは「テントじゃ寝れない、読書もしたい。今日はバンガローじゃないの?」と顔をしかめるかもしれない。一方で友人Bは「ファミリーテントはダサいからソロテントを持ってきた、あとこれから6時間かけてカレー煮込むからよろしく!」とこちらをガン無視で野菜を切り出すかもしれない。

あなたの車のトランクにはコールマンの四人用テントとお湯で温めるだけで簡単にできるレトルトカレーが詰め込まれていて、ついでに昼間は川遊びをしようと水着まで持ってきているのに、だ。

読者の中には「旅に出る前にもっと擦り合わせるだろう」というツッコミを持つ人もいるだろうが、あくまでこれは例え話である。

ただ実際問題、旅行が確定する前のプランニングの段階でこれぐらい「題目は一緒だけど、内容の個人差がものすごい旅行」というのはごまんとある(そして大体が行く前に頓挫する)

親の方がアクティブで冒険的な旅行に連れていくのに対し、子供はインドアで「そいいうのなら、僕行かない」という親父の空回りパターンもこれに当たる。

美的感覚というと持ち物やメーカーへのこだわりや、きれいさ、汚さと言った「衛生基準」に思われるかもしれない。それらも内包する面はあるが、やはりより正確に表すならばそれらの根本にあるのが「美的感覚」なのだ。結局は自分がどんな佇まいで、どんな場所で、どんな振る舞いをすることがいかにクールなのか。それが色濃く「美的感覚」にしみ出てくるように思う。

何万円も出して「きれいなバンガローに泊まる」ことが「ダサい」と感じる人もいるし、蠅だらけの仮設トイレを見て「惨め」と思う人もいれば「これを使いこなせる自分」に高揚する人もいる。出来合いの「お手軽さ」を優先して相手と語る時間を取りたい人もいれば、どれだけ時間がかかっても現地調達するワクワクを取る人もいる。

大体はハードな美的感覚を持っている人が、よりソフトな美的感覚に歩み寄ることが一般的だろう。一緒に行こうと思っている人の美的感覚を見極めて「自分が許容できる範囲なのか」を推察し、一方で許容しすぎて「こんな感じなら行かない方がよかった」とならないようにその境界を探るスキルが求められる。

3. 金銭観念がズレている

最後はやはり、お金の問題だ。

どんなに「お前とがええねん」と思えても、最高にバイブスという名の「美的感覚」が合う相手でも、結局のところない袖は振れないのである。そして旅行というのは、日常以上にその人の金銭感覚の「根」が露呈する瞬間であるように思う。

そもそも1回の旅行でトータル2万円が限度人もいれば、ホテルだけで10万出していい人だっている。レンタカーも軽で「移動ができればいい」人もいれば、乗り心地のいいハイクラスでないと耐えられない人もいるし、なんなら新幹線はグリーン車一択派の横に何時間かけても鈍行で安くいきたい人だって当然のようにいるのだ。

一回の食事でも、現地のスーパーで買い出しして部屋で済ませる方が気が楽という人もいるし、どうせ行くならとホテル最上階のレストランでフルコースに舌鼓を打ちたい人もいるだろう。とにかく食べ歩きがしたいから「もはや宿泊先のご飯はいらない」という人すらいるかもしれない。

また、旅先ではトラブルもつきものだ。

行こうと思っていたお店が空いていなかったり、移動に使おうと思っていたバスが運休で急遽流しのタクシーを使うことになるかもしれない。その時、大体の場合では「想定よりお金がかかる」ことの方が多いのだ。そういう時に「もうビタ一文も出せないよ!」とハッキリ言えればまだいいが、大抵の場合は空気を読んで(これに1万円か…)と内心後ろ髪を引かれながら決済することの方が多いだろう。

そしてこれは家に帰宅した時、だいぶ大きなダメージとなって返ってくる。

これら全てが「ここには、自分はお金をかけてもいい」と思える「軸の違い」であり、俗に金銭感覚と呼ばれる個々人の価値観の相違である。これは早々に変わるものではないし、変える必要もあまりないように思う。

個人的には婚前前に調査会社に依頼を出すよりも、2人で2泊3日ぐらいの旅行にバッと行ったほうがよっぽどパートナー感のミスマッチを防げるのではないかと思っているぐらいである。

地獄の旅行を生み出さないために

明神池で食べたお蕎麦

意外にも旅行という娯楽は人間関係に大きな影響を与える。ちょっとしたランチなら多少の歪さがあっても面白いと消化できることも多いし、実際に見聞を広める意味で有意義なことも多いから誤魔化されていることが多い。

しかし、旅は非日常における生活だ。

生活に「歪さ」が侵入してくると人は途端に大きな不快感を感じるようになり、時には距離を取りたいとすら感じることもあるだろう。気が合うと思っていたのに、旅行に行ったばかりに疎遠になったなんてことがあったらそれこそお金も機会も非常に勿体が無い。

今回は旅行という切り口で様々な「失敗パターン」を施行してみたが、総論すると以下の順で誰かとの旅行の相性を測ると良いように思う。

金銭感覚>>>>越えられない壁>>>>ゴールの一致>美的感覚

大前提として金銭感覚がずれていないことが最も重要で、お互いの不快ラインを一気に引き下げるキラーピースであるように思う。それを踏まえて「旅行のゴール」がなるべく一致している相手を選び、おまえ or それがええねんんマインドを持って「美的感覚」を双方で少しずつ妥協する…というのが100点ではないにしても、概ね楽しい旅行にできる法則なのではないかと思う。

この文が世間に露呈することで「日頃から、こんなこと考えてんのかこいつ」と思われ、ただでさえ少ない旅行仲間がさらに減ることがやや危惧されるが、この犠牲を元に皆さんの「天国パターンの旅行」が少しでも増えることを願ってやまない。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃