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年間20着の服で過ごしていたミニマリストが、本気でファッション業界を追いかけてみたら。

基本的にここ数年、私は無印良品のTシャツにダンスキンの黒スラックスだけで生きていた。

春秋はその上に、同じく無印良品のオックスフォードのノーカーラーシャツを羽織り、冬はさらにその上にニットを被れば良かった。それに真冬用のアウターがあれば、私の1年の洋服は十分に収まっていた。

服を減らすきっかけとなった「Notionでの服管理」を始めてから早3年とちょっと。当初は数を減らす目的で始めたわけではなかったのだが、いざ一点一点リストで服の管理を始めると「ここが好きだな」とか「毎回このパターンで捨ててるな」という自分の服に対する地雷傾向が鮮明になり、自然とお気に入りの服だけがクローゼットに残る好循環に入っていった。

その結果、数年かけて私のワードローブは減りに減って、内容もシンプルで効率化されたものに落ち着いた。

土台となるノーカーラーシャツは白とベージュで同じ型のものを一点ずつ、冬の肌着も兼ねる白Tシャツに至っては全く同じものを2枚揃えては1年ほど着潰してまた買い直す。そういうシンプルなサイクルで私のクローゼットは回っていた。

冬のニットは毛玉との付き合いがあるし、コートは多少の流行と熱に浮かされて数回の入れ替えもあったが、長いものだと新卒の頃に買ったチェスターコートを5年ほど着ていたことに気がついて、昨年えいやと少し上質なものに入れ替えたぐらいだ。

コートを奮発する年を除けば、わたしの年間の服飾費は数万円で済むようになり、通うお店も大物を買う時を除けばほぼ無印良品に限られるようになった。流行はチラッとネットで見るもののその真髄を知ることはなく、ただただベーシックなものだけで私の日常が回っていくように思えた。

そんな私が、ベーシックの対局とも言えるような「ブランドのコレクションの楽しみ方」や「定価で服を買うことの魅力」を知ったのは31歳、2022年春夏のことであった。今日はそんな自分にとっての天変地異とも言える、ファッションへの目覚めについてその思考過程を書き残しておこうと思う。

そもそも服を買うお金がなかった

元々私は(どちらかといえば)ファッションに興味がある方ではあったが、あまりにも「お金がない」時間が長すぎて、服への向き合い方が大変に下手であったようにも思う。

元々私は美大という場所に通う、典型的な金欠大学生だった。美大は課題をこなすのに絵の具1本4000円とかとんでもない材料費がザラに発生する世界で、とにかく画材にお金が溶けていく。服代どころか日々の食費を確保するのにも必死だったので、とてもファッションにお金をかける余力はなかったのだ(何より、絵の具ですぐに汚れる)

あまりにお金がないので、学生の頃は新品の服を買うことは超がつくほどに珍しいことだった。町田のルミネに行っても値札を見るのが怖く、店内から逃げ出すのが関の山だったのでわたしは日々の服を下北沢と原宿で仕入れた激安古着で過ごしていた。時には学校内で拾った服を着ることもあった。

しかし晴れて社会人になり、今まで扱ったことがないようなお金の塊が月ごとにまとまって入ってくるようになった。こんな私でも、給料が入るようになったのだ。

新卒の頃はお金の使い方がわからなくて少々ビビったものの、デザイナーという職業柄の見栄もあってか少しずつ新品の服を買うようになった。とは言ってもブランド物を買う度胸や胆力があるわけでもなく、学生時代に来ていたものを引き継ぎつつ+αでユニクロや無印良品を中心に徐々に服を買い替えていった。

時には勇気を出して、渋谷のセレクトショップに足を運んだ。服に数千円から数万単位のお金を自分が出せることが、とても不思議で嬉しかったのを今でも覚えている。

そして自分に似合う・似合わない服を見極めるという経験を、数々の買い物の失敗から学んだ。着るものを確保しなければいけなかった貧乏学生時代は商品選びに失敗しても着るしかないので、今思うとファッションへの学びは少なかったように思う。どんなに激安な古着でも買ったら1年以上は着ないと元が取れないし、何より買い直す余裕はなかったからだ。

しかし社会人になってから、ついに私も「買っても着ない」という、ある意味最高の贅沢を経験するようになった。さらにフリマアプリの台頭も相まって「似合わなかったら売ればいい」という新しい価値観が私の中にもインストールされた。

結果的に、1年を通して服を買う数や頻度はかなり上がった。そして似合わなければ売るという新しいサイクルが見事に定着した。

そういうことを繰り返していると、徐々に「こういうのは似合わない」という直感が当たるようになっていくのを感じた。ファッションは買った数でしか成長しないとどこかのYouTuberさんが言っていた気がするが、あながち間違うではないと思う。結局は真剣にバットを振って、ヒットした回数でしか経験値が貯まらないのはどこの業界においても同じらしい。

最近では服の購入ミスは年々減っていき、打率が上がって入れ替え頻度も少なくなっていった。偶然にもクローゼットがあまり広くない家に住み続けたので、必然的に服の全体量が増えなかったのも幸いであった。

そうしてズボラなわたしが落ち着いたのが黒スラックスに白Tかシャツという、よく見るミニマリストのワードローブ感満載のラインナップだったのだ。

妊娠でぶっ壊れた我がワードローブ

しかし数年もかけて積み上げてきた私のワードローブは「つわり」という理不尽な現象によって全てが破壊されてしまった。

特に致命傷だったのはボトムで、私はスラックスとタイトなデニムスカートの合計2着しか持ち合わせていなかったのに、そのどちらもが腹の膨らみにより全く履けなくなってしまったのだ。とにかく体調が最優先、そうすると元々持っていた服はきつくて重く、とてもその着用感に耐えられるものではなかったのだ。しかも運悪く(?)手持ちのワンピースは0だった。つまりこのままでは、下半身モロだしで外に出るしか無くなってしまう。

かなり洗練されたはずの私のクローゼットは、急激なスピードで機能不全を起こしていた。

妊娠初期の体調は地獄すぎて、特につわり最中はコンビニと産婦人科に行くぐらいしか外出がなかったので間に合わせで買ったペラペラのマタニティレギンスに持ち合わせの白Tで凌ぐことができたが、俗にいう1マイルウェアであることは間違いようがなかった。

そんなこんなで、私は偶然にも自分の服一式を見つめ直す千載一遇のチャンスを得たのだった。

つわり中に学んだ服飾史の影響

加えて、私の31年にも及ぶファッションの固定概念をぶっ壊したのはやはり知識と歴史であった。

きっかけはつわりからくる胃の不快感と吐き気に耐えながら、YouTubeをひたすら聞き流す日々を送っていた2022年晩冬のこと。毎日ずっと不快感に耐えながら布団で寝続けているので、そのお供に聞いていたラジオ代わりのYouTubeや漫画のストックはあっという間になくなった。必然的に、今まで見ていなかったような新しいコンテンツを探す必要に駆られていたのだ。

そしてその時、偶然にも出会ったのがハイブランドの歴史を説明する服飾系のYouTuberさん達であった。

これまでは「今期のユニクロ全型解説!」みたいな、ザ・ファストファッションを紹介するものはチラチラと目を通していたものの、それ以外の中価格帯〜ハイブランドの動画解説というものに(特に理由はないが)あまり縁がなかった。

当時はつわりで本を読む気力すら湧かなかった私にとって、この服飾に関する語り系動画はピッタリとニーズにハマったのだった。

つわりが明ける頃には、覚えたてのファッション知識でガチガチに脳内武装されていた。ハイブランドのこと、それに伴うデザイナーの歴史。贅沢品としての戦争中の葛藤から、戦後の華やかな時代を経てのバブル崩壊。ファストファッションの台頭・・・。一つ一つは稀に齧ったことがあるような知識が、点と点を繋ぐようにその流れを掴んでいくのはひどく興奮した。

同時に自分自身がこれまで何も服に関することを知らず、ZARAやユニクロを着たり、ハイブランドを心の何処かで「お金の無駄」と決めつけていたことを酷く恥じた。自分の服の見方も評価基準も全てが間違っていて、どこかに手頃な穴があったら急いで入りたいぐらいであった。

ついでに最近流行りの「骨格診断」や「顔タイプ診断」をひたすら眺めて、自分に似合う服の形や色を絞り込んでいった。これまで手放してきた洋服の特徴と比較してみると、まさに診断内容にバッチリと当てはまる条件を満たした「地雷服」が次々と落選していることも露わになった。いくつか自分と相性の悪い服が残っていたので、売れるものはメルカリに出して残りは潔く捨てた。

そして少しスカスカになったクローゼットを開けっぱなしにして、ひたすらその前に座り込み自分の服を見つめ直し続けた。こんなにも自分の服に執着したのは、初めてのことだった。そしてしばらくして、一つの感情が静かに頭の中を駆け巡ったのだった。

十分だが、面白くない。

率直な感想だった。衣服としての十分な機能はあるが、自分を表現したり、存在自体がワクワクするものは殆どなかった。唯一、昨年飛び降りるような気持ちで買ったウールのロングコートだけは輝いて見えたが、それ以外の服は総じて色褪せて見えた。

もうすぐつわりが明ける。明けたら、今の落ち切った気分をぐいっと上げてくれるような、そんな「上がる服」を探しに行こう。そう決意したのが2022年3月の終わり頃であった。

アパレルの奇妙な年間サイクル

みなさんはまだまだ寒さの続く「2月」という時期に、各ブランドの春夏服が新発売されるという話を聞いたことがあるだろうか。

実は洋服の発売サイクルというのは巧妙に組まれていて、わたしたち一般消費者の感覚からすると真逆の発売スケジュールが組まれている。実は1月のセールが終わると店頭で売る物がなくなるので、まだまだ寒い時期だというのに2月から3月にかけて次の春夏服が発売され始めるのだ。

これも服を勉強し始めて、最初に衝撃を受けた知識のうちの一つだった。

そして服好きな人はそれを知っていて、2月から一気にスタートダッシュをかける。そういう流行やオシャレに敏感な人たちは冬の気配が残るこの季節に新作を一斉に買い漁り、遅くとも4月までにその年の夏の買い物を終了するというのだから驚きだ。なのでこのおしゃれさん達によってそのシーズンの当たりとも言われる「人気アイテム」は完売したり、一部の色やサイズが売り切れになることも決して珍しくないという。

一方、一般的にそこまで服に興味がない人間が夏服を買い出すのは早くて6月、遅ければ7月のセールだけ行くという人も少なくないだろう。しかし上記の通り、実態としては夏が訪れてからお店に足を運ぶと店舗には「あまり物」しか残っていない訳で、そのあまり物の中からさらに人気のないものや過剰在庫のものがセールに出されるというのがファッション業界の隠れた「アタリマエ」なのだという。

つまりこれが真実だとするならば、私はこれまでの買い物で「あまり物」の中から服を選んできたということになる(あくまで新品購入に限った話ではあるが)こうして服好きの人はどんどん良いアイテムを揃えておしゃれになっていき、その仕組みを知らない人は一生あまり物を買い続けるという負のサイクルに陥ることになるのだ。

2月に夏のTシャツを買うなんて、考えたこともなかった。

まさに知力戦、おしゃれな服を着たいという素直な気持ちだけではどうやらファッションを語るどころかお目当てのアイテムにすら出会えないのが現実らしい。

3月に夏服を買いに行く

しかし、カラクリが分かってしまえば話は早い。わたしはつわりが明け切らない重い体を引きづりながら、3月のルミネにいそいそと一人向かった。そしていざお店に入って、ひどく驚いたのだ。

人は少なく、物が多い。
そして全般的に可愛いのだ。

いつも「買い物に行っても欲しい服がない」と嘆いていたのは嘘だったかのように、どの店を見ても「これいいな」と思うものがゴロゴロ出てくる。むしろ候補がありすぎて、予算が吹っ飛びそうなぐらいの勢いであった。

ひとまず下半身モロだし問題を解決すべく、出産までお腹が膨らんでもずっと着れそうな黒いジャンパースカートを購入した。中に手持ちのTシャツや白シャツを仕込めば今の手持ちアイテムを生かしたままワードローブが再構築できると踏んだからだ。

それで十分に私の知的好奇心と、実用面の両方が保管されたはずだった。しかし帰り際、ふらっと入ったショップのとあるシャツが妙な存在感を醸し出しているシャツがあった。落ち着いたグリーンのストライプが全体をシックに彩っており、形はやや珍しいセーラー型のものだった。間違いなく、私がこれまでの人生できたことがないタイプの変形シャツであった。

(いかが?)

実際にシャツがしゃべるわけがないのだが、そう話しかけられているとしか思えないぐらいに、そのシャツに私は妙に惹かれていた。

「新作で入ったばかりなんですよ、試着されますか?」

すかさず店員さんがめざとく話しかけてくる。というか平日の3月のルミネということもあってお客がまばらなこともあり、どう考えても私がロックオンされるのは必然のようにも思えた。着るだけならタダだし、ということでありがたく試着させてもらうと何だかすごく良い感じのシルエットで「欲しいな」と思わず思ってしまった。しかし、いざその値札を見るとシャツ一枚に付けられた価値はおよそ3万円であった。

さんまん、えん。

私は試着室の中でフリーズした、3万円のシャツなんて買ったことがなかったのだ。というか、1万円でも出したことはないのではないだろうか。経験したことのない値段に私は完全に怯んでしまい、その場で何度もシルエットを確認し、写真を撮ってから試着室を出て「ちょっと考えます」と店員さんにシャツを返してから帰路に着いた。

帰りの山手線の車中で、私は一人ドキドキしていた。今までにない、服との出会いだったように思えて仕方なかったからだ。

結局、夜な夜なそのシャツをスマホで眺めては値段と睨み合いっこする日々を過ごしたが、1週間も経たないうちに店舗に再度足を運んで清水の舞台から飛び降りる気持ちでクレジットカードを差し出した。今までの私だったら絶対に買うことのない単価ではあったが、つわりという戦場を駆け抜けている自分を労いたいという言い訳も相まって誰かが背中を押してくれたように思えた。

購入したシャツは非常に着心地が良くて、ゆったりとしたシルエットのおかげもあって妊娠中の私でも気持ちよく着ることができた。何より着るたびに気分が高揚し、帰ってきたら丁寧にケアをしてクローゼットにしまうという「ちょっと良い暮らし」まで付いてきたのだから驚きだ。

ちなみにそのシャツは購入から1ヶ月もしないうちに在庫が履けて、なんと4月の後半にはブランドサイトから商品ページすらも消えていた。夏のクリアランスセールにはもちろん、プレセールにも出てこなかった。私はクローゼットの前でそのシャツを眺め、腕を組みながら心の中でひとりガッツポーズをした。

これなのか、オシャレな人がしている買い物は。

セールまでの戦場を駆け抜けて

GWが明けるとつわりも収まりを見せたので、6月になってから私はもう一度ルミネに足を運んだ。実際に在庫がどのように変化するのか、実態を確認してみたかったのである。そして実際、可愛いなと目星をつけていたアイテムたちのうちかなりの物が完売して姿を消していた。

7月になると一部のショップで抜け駆けのセールが始まり、狙っていたが二の足を踏んでいたシャツとワンピースがセールにかかっていたので気持ちよく購入したが、そのうち購入したシャツの方は数日して本セールを待たずに完売した。

個人的な夏の買い物はこれで完結したが、また7/14からルミネの本セールが始まったので好奇心に駆られて初日に足を運び、午前中に各ショップを回りまくった。その1週間後にも、セール後という焼け野原で何もなくなった商品ラインナップ神話を目視すべく、買う物はもうないというのにわざわざルミネへと足を運んだ。

お店の中の商品は明らかに少なくて、欲しいなと思えるような商品はほとんど残っていなかった。私は今までこの「あまり物」の中から服選びをしていたのだと思うと、なんとハードなゲームをプレイしていたのかと唖然としたのだった。

知識は全てを癒す

全ては偶然の重なりではあったのだが、この半年でわたしの中で明らかにファッションへの見え方が変わった。まだまだ付け焼き刃ではあるが、古着やファストファッションから始まり、セレクトショップを経由してハイブランドへとファッションの歴史と知識の滝登りをした今のわたしには「流行の見え方」も「日頃の服との付き合い方」も、その全てがひっくり返るほどの大きな変化を見せた。

今のわたしは服が50万円でも驚かないし、同時に1000円でも驚かない。それぞれの裏付けされた製造過程を知っているし、物質性だけに留まらない価値に敬意を払いたいと思えるからだ(お金が払えるかは別問題だが…笑)

無駄なく、少なく、機能的に。

それが服の全てだと思い込んでいたわたしの中に、新しく「服で自己表現をすること」や「ブランドの歩みそのものを楽しむ」という新しい価値観がインストールされた。手前味噌ではあるが、これは俗にいう世間一般的な「ブランドへの盲目的な憧れ」とは一線を画すように思えた。

だからと言って急に何万円も何十万円もする服をホイホイ買えるよな度胸がつくわけでもないし、ネットショッピングを始めれば時間は溶けるように消えていくのが日常だ。入念に下調べをしたのにいざ試着をすると「こんなはずじゃなかった」と落胆することもあるし、わたしの持っている服はまだまだ機能的でシンプルな価値観の延長線にある。

それでも、世界の見え方はガラッと変わったのだ。

わたしはまだラグジュアリーブランドの目玉が飛び出るような値段のするバックやプレタポルテと呼ばれる高級衣料は持っていない。しかしそのバックグラウンドを知っているだけで、自分の振る舞いは明らかに変わった。

先日、実は勇気を出して百貨店に入っているブランドに足を運んだ。作り込まれた世界観を体現するショップに気後れしそうになったが、そのブランドの歴史や今季のコレクションの意図を学んでから現物を触ると、面白いことにそれは全く別物の体験になった。店員さんからのアドバイスもきちんと頭に入ってくるし、気のせいかもしれないが自分の想像よりは遥かに「顧客」として対応してもらえたようにも思えた。

結局そのブランドでは購入に至らなかったが、その背景を学んだ上で実際に見て買わないことと、何も知らずに食わず嫌いで買わないことの間には雲泥の差があるように思えた。これが個性的な服もまた然りで、いずれ私自身のタイミングでご縁があれば、その際は自然とそのアイテムたちは私の手元にやってくるように思えた。

そしてこの猛暑の続く8月の中、わたしはいま秋冬のコートを真剣に探し続けている。

以前のわたしであれば「こんなクソ暑い時期にコートやセーター売り出して、誰が買うんだよ!」と広告やメルマガにツッコミを入れていたが、それが無知から来る恥ずかしい指摘だということももう理解している。良いコートは早いと9月にはなくなってしまうかもしれないから、クソ暑くても今買うべきなのだ。

少なくとも、服という知的な文化を楽しみたいと思っているのなら。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃