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古典の暗示するものを読み解く

古典の謎にこそ歴史解読の道標がある

 過日、歌舞伎の舞台が終わり劇場を出ようとしている時、熟年の男性がお連れの女性におっしゃっている言葉が、一瞬飛び込んで来ました。
「義経は九州へ行っていない・・・」
お連れの方が渋い顔をされているのが、ちょっとだけ目に入りました。
 『義経千本桜』という作品の「大物の浦」と呼ばれる幕の上演後のことです。
 『義経千本桜』は、もともと人形浄瑠璃のために書かれた演目です。歌舞伎として上演する場合、”丸本歌舞伎”と呼びます。丸本歌舞伎は、歌舞伎の中でも劇的骨格のしっかりした作品群を形成していおり、その作品群の中でも、この『千本桜』は、三大名作と言われる作品の一つです。
 その名作と言われる本作の大序(物語の冒頭)に、「宝祚八十一代の天子安徳帝。八島の波に沈み給えば・・」とあり、この物語は始まります。
 史上の安徳帝が入水したのは、壇ノ浦です。
 こうしたことがあるからでしょう、近代の劇作家には歌舞伎を「痴呆の演劇」という方まで、おられました。
 しかし、変だなと思ったところから、一歩踏み出すことが、古典との付き合いには必要です。
 なぜ、古典を少しかじったことのある人ならわかる間違いをおかしているのか。それは、これが誤りではなく、この作品が、12C末の歴史を扱っているのではありません、と暗に示しているからなのです。
 本作は、16C末から17C初頭の歴史、天下統一の過程で平氏政権から源氏政権の移行期にあったことを描いている、と私は考えています。なぜかということは追々論じていきます。
 和歌の世界では、本歌取りという趣向がありますが、歌舞伎(浄瑠璃)でも元の物語の”世界”を使って、本来の物語の時代とは違う新時代の物語や、価値観を描き出していると言えるのです。
 12Cの源頼朝は平家の、というより平清盛の血筋を根絶やしにしようと残党狩りを執拗に行いました。しかし、人形浄瑠璃や歌舞伎の世界では、頼朝は全く違った人物として描かれます。
 戦国乱世から江戸三百年の平安の礎を築く過程で、どういうことがなされたのか。それを顕彰し語り伝えようとしたのが本作である、と私は思います。
 このような古典が秘めている暗号は、日本の近世に始まったことではなく、古事記、日本書紀の時代から、日本の文学にずっとありました。
 日本だけではありません。洋の東西を問わず、また、古代から現代に至るまで、気がついてもらうのを待っている作品がたくさんある。世界の古典文学や芸術から、現代の商業ベースに乗った映像や舞台にいたるまで、解明されることを待っている作品がたくさんある、と思います。
 そうしたものを読み解く洞察力こそが、世の中の行く末を考える礎になると考えます。
 歌舞伎や人形浄瑠璃のみならず、能や狂言、さらには古典文学の研究が、今の日本で停滞しているのは、こうした視点が欠けているからではないか、そんな風に私には思えます。
 近代的教養や、人文の分野で実証主義が必要以上に絶対視されてしまったからでしょうか・・・(?
 とはいえ、私もこうした読み方が、最初から出来ていた訳ではありません。
 次回は、こうした読み方を教えてくれた、恩師ならぬ恩書の紹介から、まずは、”清和源氏の謎”に迫っていきたいと思います。
                        2023.4.4


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