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人と同じ気持ちになれない

ニュースで誰かの訃報が出ると、「ご冥福をお祈りします」というポストを観測する。
意味は調べたら分かるし、その方と死を悼むんでの言葉なのは知っている。でも、私はご冥福をお祈りしますとポストする人の気持ちが分からない。特に、そんなに思い入れのない人のそういう投稿。

まず、名前や業績を知っていても、悼むほどの熱を持っていた方が亡くなった経験が多分私にはない。これはこれで幸せなことなのだろう。だから、訃報に対してショックを受ける一般人のリアクションが分からないのかもしれない。学校の先生や同級生、会社の方などが亡くなってもピンと来ないのだから、画面の向こうの人が亡くなっても余計にピンと来ない。
だいたい死は生きてるものに対して平等にあるものだ。遅かれ早かれいつかは来る。今も世界のどこかでは亡くなっている人がいる。関係の薄い方の死をいちいち心から悼んでいたらキリがない。そんなに人に思い入れがない。ただ知っているだけの人が亡くなっても、そうですかとしか思えない。でもなんとなく、悼んでいるかのような振る舞いが求められる気がしてしまう。

もちろん亡くなった方の先が安らかであればいいとは思う。それほどの思い入れのない方でも、地獄のような思いをして欲しいみたいな気持ちはないし、普通に死後の世界があるなら安寧であったらいいとは思う。そして、亡くなった方の関係者がそういった悼みの言葉を述べるのもわかる。大切な人の訃報はとてもショックだろう。情熱を持って故人のことを応援していた人も、残念に思うのはわかる。
たが世の中には、私と同じように特にファンでもなんでもないけど「ご冥福をお祈り」している人はいる。あれは、誰に対して何をしたくてポストしているのか、知りたい。教えて欲しい。心から悼むほど故人に思い入れがあったわけでもないのにその言葉を言うのは、挨拶みたいなものなのか。
周りが「ご冥福をお祈り」している中、自分がそういった気持ちになれないことが、いけないことのように感じてしまう。私は不道徳なのかな、人として間違っているのかなと。こういったことは思うだけでわざわざ書くことないだろうというのもわかってはいる。社会性のないことを思ったり言ったりする自由は多分あるけど、実質ない。それをすることは基本的に損である。
それに、みんながみんなご冥福をお祈りしてるわけではない。私のようにピンと来てない人は言わないだけで沢山いる。でもやはり追悼ムードに共感できないことに、戸惑いや後ろめたさのようなものを感じてしまう。これは認知の問題なのだろうか。

実際、ご冥福をお祈りした人たちは、次の5分には全然別のいつも通りのポストをして楽しんでいたりする。これが余計分からない。死を悼むってそんなもんなのだろうか。具体的にどれくらいなら悼んだことになるのかを定義することはできないし、まじで人それぞれなのは承知だけど、自分の感覚とは違うから、本当に分からない。

熱を持って好きだと思ってる方の訃報を聞いたら、「ご冥福をお祈り」できるようになるのだろうか。たぶん、その方の訃報にショックを受けたり悼んだりはすると思う。でも、「ご冥福をお祈りします」と自分がポストするのは、あまり想像できない。言葉自体にメイクセンスしてないのか、わざわざ本人が見てる訳でもないところに投稿する意味が分からないのか。「ご冥福をお祈りします」って本人に向けた言葉なのに、どうして生きてる人が見えるところに投稿するのだろう。社会性を示すお言葉に見えてしまう。私は故人の死を悼んでいますと周りに伝えるための言葉のような、悲しみを共有するための言葉のような。

こうして、今日も自分はみんなと同じ気持ちになれないとか、社会性を持てないとか、ひねくれるのであった。でも、好きな人や大切な人の訃報に悲しくなれないとかじゃないので、まだ私は人間だと思いたい。うーん。




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