仲白針平

小説家「フランツ・カフカ ショートストーリーコンテスト」最優秀賞受賞「傘」(「文學界」…

仲白針平

小説家「フランツ・カフカ ショートストーリーコンテスト」最優秀賞受賞「傘」(「文學界」2024年2月号掲載)。 📪 itachihajikami@gmail.com 🦋https://bsky.app/profile/shirohari.bsky.social

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  • 寓話集

  • 横にされた殺人の記録

    短く不可解な偏執的創作の断片、スケッチ

最近の記事

蓮火

 間断なく灰白色の砂が、カーブした分厚い壁の隙間から染み出してくるようで、そこにときどき小石が削られてできた黒いかけらが混じり散っていく。消火活動に使う粉粒を買ってくるように言いつけられたあなたは、火消しが回している――というよりはただ監督し、いくつかのスイッチで操っているだけの――巨大な石臼のたてるジリジリという音を聞きながら、キリギリスが翅を擦り合わせるところを思い浮かべる。涼しげなのに、重い荷物を引きずって坂を上るような、不思議な音だ。火消しは、臼で挽いた粉をカーキ色の

    • 最終日

       始まりました。余命一日の世界のみなさん。こう見えても私、予言者をやっておりましてね。もうだいぶベテランではあるのですが。今がこんにちはなのか、こんばんはなのかよくわかりませんが、とにかくまだ挨拶することはできるみたいです。こんな日には、さしずめさようならと言っておくのがふさわしいかもしれません。世界滅亡ラジオ第一回放送の今日は、明日に控えた世界の滅亡についてお話をしていこうと思います。最後までお付き合いください。とは言っても、私の声はどこにも届かないでしょうがね。今、ちょう

      • 逆さま

         私はここに座って、もうかれこれ百年になる。私に今できることといえば、それからこれまでしてきたこととか、この先していかなければならないことといえば、この椅子にじっと座りつづけていることくらいじゃないかな。で、なんだっけ? そうそう、百年という年月はそうだな、頭と尻がひっくり返って逆さまになるくらいの実に長いあいだのことなんだよ、ちょうどこの私の頭と尻がひっくり返って逆さまになっているみたいにね。どうして逆さまに椅子に座ってるのかなんて訊かないでくれよ、現にこうして逆さまに座っ

        • 忘れ物

           絶対に忘れ物をしない女が、人生でたった一度だけ忘れられない忘れ物をした。いつもと変わらない一日の、いつもと変わらないはじまりだった。  女は自分が忘れ物をしたことに気がつかないまま家を出た。いつもどおりの時間の、いつもどおりの快速電車に乗った。会社に着くと同僚に「おはよう」と言い、コーヒーメーカーで一杯のコーヒーを作った。瓶詰めの茶色い色をした角砂糖をひとつ取り出し、コーヒーの中に落とした。午前中、四種類の書類に目を通し、一種類の資料を作成し、三本の電話の対応をした。キッチ

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        • 寓話集
          8本
        • 横にされた殺人の記録
          25本

        記事

          裸足で走る女

           今朝、仕事に行くために駅まで向かう途中で、ランニングをしている女に出くわした。女は裸足であるということ以外、どこから見ても完璧なランナーだった。ランニング用の帽子をかぶり、ランニング用のサングラスをかけ、ランニング用のウェアを上下に身につけていた。しかし、なぜかランニングシューズだけは履いていなかった。  東京は朝から猛暑で、一日のうちでランニングに適した時間帯などあるはずもないと思うのだが、どんなときでも走る人間は走るのだし、仕事に行く人間は仕事に行くのだ。  こんな日に

          裸足で走る女

          ぎぶれな

           ほんのり色づいて、というときのほんのりがどのくらいの色づきのことであるのかこれは曖昧であるのだけど、その曖昧な記憶の湖底で眠っていた梅の花弁のようにピンク色をした午後五時三十分、外回りから職場へ帰るのもダルいしなー、汗滲むなー、ひんやりしたいわ、と思って駅裏の公園のベンチでひと休みしようかと歩いていると、当の公園からパキッとした色味の服を着たDJが出てくるのが見えた。  何ゆえその男がDJであると判別できたかというと、彼がターンテーブルを所持していたからで、首には黒くてごつ

          何も書かない

           ぼくはもう何も書かない、と彼は言った。これまで書いてきたすべてや、これから書くかもしれなかったすべてと袂を分かち、今書いているものから目を背ける。彼はどこかへ出発する。出発は彼をどこかへ旅立たせる。これまで書いてきたことすべてや、これから書くかもしれなかったすべてや、今書いているものが、彼にもう書かせなくさせる。もう書かなくさせることが、彼を彼にさせる。    死んでみて、と彼は書いてみる。これまで死んでみたものすべてや、これから死んでみるかもしれないすべてや、今死んでみよ

          何も書かない

           女、女、女だ。たくさんの女を知った。いや、一人として知らなかった。通りを歩いていると女が目に入った。目の中を女が歩いていった。女の歩き去る後ろ姿を目で追った。女はつねに遮蔽されていた。何によってかはわからなかった。どの女が本物の女なのか、偽物の女なのかわからなかった。視界の両端を女が横切っていった。視界の両端以外の部分には何も存在しなかった。男ですらも。寝ても覚めても女だ。今日は女の日なのだ。目に入るすべてのものが女への通路だった。虚無でさえも。吐き気がした。腹の底から、気

           もう、ウナギなど食べたくないし、ウナギの顔も見たくない。  宵闇の底を這う水生生物のような、湿っぽい紆曲を続ける町道を歩いていると、そんな想念が再び押し寄せてくる。  この道は、どこにつづいているのだろう。蒲焼きをタレに浸したときみたいに、甘ったるい夜のしずくが、昼の熱を吸い込んだアスファルトの上でじゅわじゅわと音を立てる。  ウナギから逃れたい。  それは、絶体絶命の欲求として、存在の根源的苦痛の表明として、身体の内奥から湧きあがり、重たく膨らんで、ぼくを押し潰そうとする

          彼女は左利き

           彼女は左利きで、彼は右利きだった。  その日、彼の隣に座った二人目の女が左利きの彼女だった。彼女は彼の右側に座った。そのときには彼女が左利きだとは気づかなかった。ペンや箸やナイフを使う場面がなかったからだ。べつの場所で二度目に会ったとき、彼女は彼の左側に座った。彼女は左手で箸を使っていた。あべこべの位置に座らなくてよかったと右利きの彼は思った。  右利きの彼は、彼女の隣に座った九十七番目の男だった。はじめのとき、彼が右利きであるとは気づかなかったし、そんなことを気にしてもい

          彼女は左利き

          空白

           この空白は、埋めないほうがいい。手を触れずに、そのままの状態でそっと箱に詰めてしまっておくか、あまり大事に長いこととっておいても仕方ないのだから、すぐに捨ててしまうかだ。一番良いのは、見て見ぬふりをすること。あなたの目の前にある空白を、力ずくで奪おうとする人間がいるのなら、いっそのことそいつの手にゆだねてしまったほうが、まだしも賢明なのかもしれない。盗人は奪い、そして駆け出すだろう。もう、どこを探しても見あたらない。痕跡ひとつ残さない。逃げ去る後ろ姿を眺めながら、あなたは妙

          忘睡

           熱がどこから生まれて伝わってくるのかわからなかった。  たぶん太陽が移動したせいだろう。  頭が故障したのかもしれない。  目を覚ましたときにはいつもよりはっきりと明るかった。  背中の下に敷き詰められている砂利も、正面から直角に降り注ぐ透明な粒子の入り混じった空気の雨も、熱を奪って私を冷たい人間に変えていきそうなものなのに、身体はどこかにある熱そのものと、さらなる熱さに対する切望のためにあえいでいた。  まるで身体が死をもとめているかのようだった。  やがて私の前に現れて

          運び屋

           おれはこいつをあんたに届けるためにやってきた。合成繊維をはりめぐらせた、暗く冷たい鞄の内側の世界。夜の底にこびりついた焦慮を、つま先で削り取るようにおれは前のめりに歩いていく。外からは見えない黒い網目に鼻先を突きつけて、嗅ぎなれない街の匂いの染みついた空気を、胸いっぱいに吸いこもうと鼻腔をひくつかせているけはいが、不統一な重みとなって手のひらから伝わってくる。夜の獣は夜の獣らしく、闇から濾しとった光を眼のなかに滴らせて、鞄の内側で静かに何かを待ちつづけている。ある意味では夜

          笑う影

           影は音もなく滑空する。暮れることを忘れた灰白色の空に、エイを思わせるシルエットで突如現れ、数十秒後には市街地に飛来し、ひとりの歩行者に狙いをさだめて一瞬後に背後から襲いかかる。影は見事な細長さを誇る尾棘を泳がせながら、彼の首根っこに喰らいつき、上空へと吸い上げ、その黒いはらわたの内部へひと息に飲み下す。たちまち餌食となった歩行者自身がその巨大な影の一部と化し、一部は全体と融けあって、影の中に笑いの渦巻きが沸き起こる。咳き込むのを我慢するような、途切れとぎれの苛立たしげな笑い

          前触れ

           右眼の後ろのずっと奥のほう、眼窩の薄壁を透かして、鋭い白さに燃えたつ一閃の光が、その不意の奔出から予想されるよりも緩やかな速度で横滑りしていく。光はやがて散りぢりになって、眼球に水のように滲み出していき、視界のなかでいたずらに煌めきあってみせるのだが、その実体を捉えようとあわてて目もとの筋肉に力をこめても、けっして焦点を結ぶことはない。見たと思った瞬間、それはすでに消え去っており、すぐ隣のまたべつの場所に、新たな光の斑点がいくつかの染みを形成しはじめているのだ。

          祖母

           田舎の家にひとりで暮らしている祖母を訪ねた。もう一年半も会っていない。いや、丸三年は会っていないというほうが事実に近い気がする。彼女は九十歳で、もしかしたら九十一歳かもしれないし、百三歳かもしれない。年寄りであることには違いなかったが、ときおり少女のような一面も見せた。というより、祖母は少女だった。つまり歳をとっておらず、ゴムボールのように柔らかく、弾力があり、活動的だった。だから九歳かもしれないし、十五歳かもしれない。少女のような祖母コンテストというものがあれば、きっと優