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なぜコロナ禍で偏屈な人間を残しておかなければならないのか

皆様、遅ればせながら明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
2021年はコロナで始まりコロナで終わり、とコロナ一色でしたが皆様にとってどういう一年でしたか?
フランスでは年が明けても未だ終わりが見えず感染真っ盛り。冗談でも「コロナ(ビール)が好き!」とは言えない状況が続いています。
個人的にも昨年はコロナ関連で振り回された年でした。状況的に仕方が無いものの人と会えばコロナやワクチンの話が多く、演奏活動にも多少の制約があり、そして何よりここフランスにおいてとても肩身の狭い思いをしてきました。
というのも私は、とある信条のもとワクチン接種していないからです。

今回この話を書くのは少し迷いました。
というのは批判が怖かったり、自分という人間に幻滅して友人・知人が去っていくのが辛いから...、ではないです。
元々、私は選択を迫られた時、社会倫理より自分の道徳観を迷わず選んできた人間なので、今さら自分をひた隠してまで常識人に思われたいわけではありません。
そういうことではなく、自分が携わった表現に余計なバイアスを与えないよう、不特定多数に政治や宗教的な発言はしないと決めていたからです。
その上、文章が苦手で感じていることを言葉に落とし込んで理路整然と並べ直すのにえらく時間がかかります。
ディスカッションはさらに苦手で、話しているうちにどんどん自分の正当化のために思ってもいないことを口にしてしまうし、そもそも一般的に共通認識とされているものが自分にとっては前提にならないことが多く、スタートラインに立つまでに膨大な説明をしなければならないのです。

今回、そんな私がお話するのを決めたのは、大半のひとが抱いている身体的・経済的危機のうらで、今後の流れによっては自分の存在意義自体を奪われかねない事態を危惧するからです。
まずお断りしたいのは、これから書く内容はあくまで、何が正しい、何が正しくないという話ではなく、ただ私個人が感じているという「」付きの話です。それぞれの方の経験や考えを否定するものではありません。
気分を害される可能性のある方はここでそっとページを閉じてください。


2019年暮れにCovid-19が現れてから早2年、世界の様相は色んな局面で一変しました。人々の行動から常識、マナー、ビジネス形態、社会形態、道徳etc...。そのすさまじい変化の度合いはまるで戦時下のようで、一年前の常識は今年は通じないなんて事もザラにあり、ボーっとしていると時代の迷子になりそうです。
フランスでは昨年からワクチン接種が始まり、衛生パスポートの提示が飲食店や特定の施設で義務になり、そういった政策の移り変わりに比例するように人々のコロナに対する倫理観も目に見える形で移ろいで行ったように思います。
私個人もワクチン接種以外で自分の中で出来る限りのことをやってきました。
マスクをしたり、演奏毎に有料になった陰性証明のテストを受けたり。ワクチンを受けていないことで被る不利益も、自分の取った選択肢の責任として受け入れてきたつもりです。
ただ国を挙げてのワクチン政策が功を奏したのか、ワクチン接種者が8割近くに達すると、世相的にワクチンを打っていないこと自体を公言しづらくなりました。
そして遂には、ワクチン接種をしていないと陰性であろうと衛生パスが発行されない(ワクチンパス導入)法案まで出現、もしこれが今月可決されると、今後のコンサート依頼は全てお断りすることになるでしょう。

自分は、友人同士で複数人集まる時や年配の人と会う時にはワクチンを打っていない旨を伝え、それでも会えるかどうか毎回承諾を取っているのですが、私の周りだけでも様々な反応があります。
何故ワクチンを打たないのか?と聞く人、気にしない人、気にしないフリをする人、理解を示す人、話題を避ける人、メールの返信が無くなる人etc。
個人的にはどんな反応をされてもあまり気にしていなかったのですが、昨年末親しい友人に電話で長いこと説教されたときには流石に暗澹たる気持ちになりました。
彼はブラジル人のギタリストで、前から親のように慕っているとても寛大なおじいさん。
年が明けたらリハーサルをしたい、と言ってきたので、正直にワクチンを打っていない旨を伝えたら、電話の向こうで凍り付いたような戸惑いを感じ...、その後堰を切ったようにワクチンの重要性を説かれ、打たないことの無責任さを指摘されました。
こちらの考えを述べようにも言葉尻をとらえて否定され、言いたいことにも辿り着かず、そのうち、ネット上の陰謀論を信じてはいけない、根拠のない情報を信じるな等、割と一方的に説き伏せられました。
もちろん自分の語学力の無さできっちり反論できなかったのも事実ですが、何かを強く信じている状態の人というものは、理解できない考えに出会うとこうも人の話を聞かないか...、と愕然としました。
彼の母国ブラジルでの悲惨なコロナ被害や、子供時代にまだまだ発展途上だったブラジルにおいてたくさんの命がワクチンで救われたという背景から、私の選択が彼の倫理的にあり得なかったということは理解できます。
しかし、私は陰謀論を信じているわけでも、何かの情報を鵜呑みにしているわけでもない。
そもそも自分の行動原理の中で、情報というものから何か重要な事を決定することが無いので、彼の指摘は正しくないのですが...。

人はいつの時代も自分の信じたい情報に科学的根拠を見出すと、断定的に物事を捉え、現代の科学でさえ未知な物に対しては未だ発展途上であるという事実に目を瞑る。
ワクチン賛成も反対も、様々に入り乱れる情報を自分の中で腑に落ちるほど十分咀嚼できていないので、態度を保留しているというのが本当のところ。
残念ながら何が正しくて何が正しくないのか、今の段階で時代を俯瞰できるような慧眼を私は持ち合わせていません。
個人的には、不安や恐怖を煽って全体主義を促すのは為政者達がよく使う手垢にまみれた手法だから、こういう時こそ身構える、というのもありますが、それも主観的で確証は無いことなので置いておきますが…。


私が本当に懸念しているのは、ワクチンパスでも演奏できないことでも更にはコロナ禍自体でもありません。
そして私が態度を保留している理由は、ただ単に公共性視野を欠いた保身にあるわけではないのです。
その事を話す前に、私が普段から感じている記号化していく社会と人の身体性との齟齬についてお話します。

私は普段、目の前にある事象や物事を観察する時に、経験則と生身の反応の双方を交えて認識しています。
主に対象物を原因と結果のように構造的に捉えて相関関係を探ったり、現象として知覚し自分の有機性の中でどういう波紋が広がるかを観察したり、いわば論理性みたいなものと、もう一つの方は「個人の土着性」と呼んでいるのですが、それらがお互い融合したり相反したり常に動的に流れ、何か解が必要な時どこかにスポットを当てる。もし論理的な形として出す必要がある場合にはそのように組み直し、表現をする場合にはその時の抽象・具象度合いに合わせて表出しています。

この論理性と土着性を織り交ぜたりどちらかに偏りながら物事を考えるのは、私にとってはごく自然なプロセスなのですが、クリエーションの場でない限り、一般社会では土着性の方はあまり必要とされません。論理のように共有しやすいものでも無ければ、一見主観的でランダムなので、意味不明、ナンセンスなものとして扱われます。
特に経済活動の場においては、どちらかといえば非生産的なものとして捉えられると思います。
ただ私は人々の意思決定が政治や経済活動に依り、善悪、正しい正しくない、白黒、有益無益等どんどん思考の核まで二元論的になっていくことに居心地の悪さを感じています。
そのためなのか、個人主義が担保されている割に生活様式も思考過程も似たり寄ったりな現代社会において、本当に自分を相対化して個人のモラルを育むには、社会倫理だけではなくこの土着性というものも必要不可欠だと思っているのです。
それは表層的な多様性を謳うばかりではなく、各々が社会の中で真に文化的に共存するための骨子であり、社会が経済活動のための無機質な器にならないために欠かせないものなのです。

ただこれだけ様々な局面で有形無形に記号化された社会の中では、それは答えのない無意味なフラグメントのように映るので、有用性を説くのはとても難しい。
そんなわけで蔑ろにされた土着性は行き場を失い、そのことが心的・社会的に問題を抱えている人を少なからず生んでいると私は思っています。
もしアートや文化に何か役割的なものを見出すとしたら、そんな土着性の行き場を提供することでしょう。
文化的なものは社会が不安定な時に余剰として切り捨てられやすいですが、実はこういう時にこそ必要であり、人が生に彩を感じる必要がある生き物である以上、そこには持続的社会を作るヒントが多分に含まれているのではないでしょうか。

アーティスト(嫌いな言葉ですが便宜上使います)と呼ばれる人たちは、そんな中ひたすら色んな事象の中でこの土着性を磨いている人たちだと思っています。その過程で一つの信頼の置ける視点を育み、その整合性に責任を負う。
だからコロナの出現に合わせてこの整合性をひっくり返されることなく、コロナでさえも一過性の現象として時間をかけて観察しなければならないと思っている。
乱暴な言い方をすると、アーティストというものは必ずしも、常に現行の社会に対し何か責任を負う存在ではなく、社会と一定の関わりを持ちつつも一つの独立した視点に責任を負っている。
人々の営みを全く機能的に捉えるならば、この部分を切り捨てて制度で人を促すことは社会として正しいのかもしれない。特に今回のような問題が起きた時には即効性を示すでしょう。
ただたとえ全体主義で何かを乗り越えなければならないような時でも、この時代性に依らないある種の整合性をもつ視点を残しておかないと、もし選択肢が正しくなかったときには総崩れになる。
社会はもっと有機的な揺らぎの集合体である以上、そういう視点を現行の社会にとって不要不利益なものとして根絶やしにするのは、生きた文化の死、倫理観の画一化を意味します。
それはまるで、自分達の慣れ親しんだ倫理観や文化が正義だとして、土着の文化を圧殺していく無神経さに似ている。

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先日、マクロン大統領が「ワクチン未接種者をとことんうんざりさせてやる。」という趣旨の発言をしたそうです。どううんざりさせるのか知りませんが、現段階で私がワクチンを打つことはないでしょう。
そしてデモにも参加しません。
その理由は、liberté(自由を)と叫んでもその自由とは私にとって、例えその時点の社会では不正義であるとしても自分の視点に全責任を負い続ける、という重い意味を持ち、スローガンとしてひとくくりにされたようなlibertéとはかけ離れているからです。


人命は重い。
一方で、コロナ禍は過ぎ去ればその脅威は無くなるものの、一度破壊された文化的な多様性は形こそすぐに戻せてもその有機性はなかなか戻らない。
場合によっては国をあげての政策はやむを得ないし、個人が何を信じ、何を非難・批判するかは自由とされるべきでしょう。
ただコロナに限らず、社会不安の渦中にある時こそ立ち止まって考えて欲しい。
今、目の前にある社会正義がどういう時代性を帯びているのか。
公共性の名のもとに、自分の信条と相容れない存在の居場所を根こそぎ奪おうとしていないか。
世の中のモラルが一色にベタ塗りされて、正しい正しくないの踏み絵として使われるとき、文化はひっそりと色褪せる。

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