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自称天才を考える

前回に才能について語っています!よければご覧ください。
https://note.com/shironotabibito/n/n69fedc020df5

自分の事を天才だと思ったことはあるだろうか?
某アニメの先生みたいに「僕天才だから」なんて言えたらどれだけいいだろうと思う。

圧倒的な実力差は直接相対してみないとなかなか気づけないもの

「馬鹿と天才は紙一重」

この言葉を嚙み砕いていくと

・馬鹿と天才は常人とは異なる扱いであるという事。
・馬鹿と天才は常識に当てはまらないという事。
・馬鹿と天才は奇抜で、飛んだ発想や行動を行うと考えられる事。
・馬鹿と天才は分類が似ているが決定的に異なる要因がある事。

と考えていける。
常人の定義も考えると、
多くの人が出来ること、
出来ないことが同じだけあり。
提案の議題等でも支持率の高いもの、
多く共感を得るものが一般的だと言える。

こういう風に考えていくと自称天才を名乗りたくなくなるのではないだろうかと思う。
さて何を言いたいのかというと大半が無知ゆえの、つまり馬鹿だからこそ、
判断できていない事の方が多いという事実。


天才という言葉の重み

天才は自分を天才とはめったに言わない。
天才と自称する以上は何らかの圧倒的なモノをもっていないと釣り合わないからだ。
以前、こんな言葉を職場で耳にした。
「俺等は沢山の苦労と死地を越えてきた。だから天才だけど、皆はその機会がなくて可哀そう」とこれを聞いたときにこの人の言葉には重みが一切ないなと感じたことがあった。

程よい「負荷」は大切だが、無駄に「背負う」のは大間違い。身の丈に合わない事は
破滅を招く。プレッシャーや負荷はたまにはそっと横に置く程度の付き合い方で。

天才である理由が、苦労や死地を超えてきたこととの繋がりが無いし、
苦労や死地と捉えている時点で、常人でしかなく、また、
同じ苦労が出来なくて可哀そうだと思うのが見当違いであるという事。

これを先ほどの条件に当てはめていくと、
奇抜な発想、非常識さはあるが、圧倒的かと言われると自己肯定感は圧倒的かもしれない。
そういう意味では天才だが、はたから見ると痛い大人でしかない。


おバカブームがあった時代

2010年前後、おバカキャラがブームになった。
その天然な回答やちぐはぐな空気感から意表を突く笑いで、
魅力的な一面もあったと思う。
似ているものだと、日本語をまだまだ勉強中の海外の人が、
無茶苦茶な日本語で笑いを起こすあの感じだと思う。

集団の中の特異な動きも魅力の一つ。芸人には無い、ありのままな感じが受けていたのかも。

だけど、どちらも必ず愛嬌があり人を不快にさせないという点では同じだと思う。
そういう意味では「天才」は人が憧れ、妬む対象にもなるので
馬鹿よりも求められるハードルが高い。
頭がいい人なら絶対に自身を天才と言わないのも納得がいくもので、
わざわざ自分のハードルを上げて評価を落とす人はいないからだ。


大半の事が些細な事の積み重ね

「千里の道も一歩から」「ちりも積もれば山となる」「雨だれ石を穿つ」
昔からこの手の表現は数多ある理由がなんとなく気が付けるだろうか、
普段繰り返し行っていることが、数十年後には誰もたどり着けない域に達していることもあるかもしれない。
苦労を推奨しているわけではなく、「まだまだ道半ば」そう考えながら
じっくり目標に向かって進んで行こうと思うきっかけになったそんな話。



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