夜燈(yoakari)

エッセイでもない。詩でもない。揺れ動く表現者

夜燈(yoakari)

エッセイでもない。詩でもない。揺れ動く表現者

マガジン

  • 人気作品

    沢山のスキを頂いている記事を集めました。

  • 自己紹介

    近況も含む、自己紹介記事を収めました。

  • 夜燈の由来

    タイトルそのままです。夜燈の名前の由来についてを記した記事をまとめました。

最近の記事

先日、祖父の余命宣告をうけました。そのため、暫くの間更新ができなくなる可能性があります。Xのほうでは、毎日の祖父の様子を含めた投稿をさせていただいております。見守ってくださると幸いです。どうか、よろしくお願いいたします。

    • 知らないということ

      わたしは知らなかった。知らないことは知らないのでもうそれでいいと思っていた。いつもならわからないことは追及するのに、追及することをやめてしまっていた。「わからない」と思い込んでしまっていた。決めつけてしまっていた。 この多様性の世界で生きるには、多様な在り方にも目を向け、理解をするために勉強する必要があるのに、それを怠っていた。目を背けていた。 それはれっきとした差別に成り得るのだと学んだ。 知らないでは済まされないことがある。知らないことは罪になるのである。 知らな

      • やめた

        わたしともう一人の方と二人で企画しているポッドキャスト、【明け方のエコール】の、お便りボックスとして使用しているマシュマロがある。 そこに、以下のようなメッセージが送られてきた。 非公開アカウントにしているわたしのX(旧Twitter)にて衝動的に応答しているが、こちらでも応答することにする。 まず、わたしはこのメッセージによって文筆家と名乗ることをやめた。 文筆家と名乗るにはマネタイズしている必要があるというなら、わたしはマネタイズしていないのだから名乗ることができない

        • もっと自然に

           自分の語りたいことをもっと自然に書けるようになりたいと思った。  ここ数回の投稿は挑戦して実験的に書き方を意図的に変えていたが、やはりそれは自分には合っていなかったようだ。不自然に感じてしまった。  また、今こうしてまた書くことができているが、今こうして書いているこの瞬間までたどり着くのに、つまり、また再び書けるようになるのにそうとうな時間を要した。以前のように楽に(厳密に言えば楽ではないのだが)文章を錬成することができなくなっていたのである。それにはいくつかの理由があると

        先日、祖父の余命宣告をうけました。そのため、暫くの間更新ができなくなる可能性があります。Xのほうでは、毎日の祖父の様子を含めた投稿をさせていただいております。見守ってくださると幸いです。どうか、よろしくお願いいたします。

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        • 人気作品
          12本
        • 自己紹介
          6本
        • 夜燈の由来
          6本

        記事

          10月は多忙につき発信できる目処が立ち次第の更新となります。

          10月は多忙につき発信できる目処が立ち次第の更新となります。

          嫉妬にまつわる問い

          嫉妬について  冒頭の詩は、わたしが小学生のころに狂ったように読み続けていた金子みすゞの詩である。  彼女の詩には、実に様々なテーマが織り込まれているが、中でもこの詩に織り込まれている「嫉妬」について考えてみたいと思う。 嫉妬はいけないことなのか  嫉妬は、キリスト教の七つの大罪の一つとしても有名である。(参考:  嫉妬、嚙み砕けば「ねたみ」である。大罪として扱われるほど悪いものなのだろうか。 わたしからすればごく身近な感情と言えるものでもある。嫉妬している自分に苦しめら

          嫉妬にまつわる問い

          「持たざる者」

          『簡単にいわれていること』(https://note.com/shiru_life/n/n5115448e7951)にて提示した、価値判断の属性のはなしの続きをしたいと思う。  人は、社会生活において他者を属性でしか判断できない。そして、SNSが発達した昨今において特に、個人の外在化された属性・付属している何らかの〝人間が決めた、それだけで価値のあるとされている属性〟でしか人を判断できないのである。   この問題について議論することを、何度も考えた。なぜなら、この議論は、「持

          「持たざる者」

          わたしは、読者の方々が自分のこころの闇や自分の苦しみを持て余していたら、そのこと自体と向き合ったり、自分が持っている問題意識と少しでも向き合うきっかけになれたらと思いながら作品を投稿しています。 最近の書店で平置きされている本たちはみな、ポジティブになることを押し付けてくるようなものばかりです。わたしはこのことを問題として捉えています。 暗いことや、翳りがあることは悪いことではありません。誰にでも、闇はあります。それに蓋をして、見て見ぬふりをすることは簡単です。 そこで、

          わたしのnoteはポートフォリオです。どこから読んでもいい。気のまま、惹かれた作品を読んで、そのこころと向き合う時間を大切にしてください

          わたしのnoteはポートフォリオです。どこから読んでもいい。気のまま、惹かれた作品を読んで、そのこころと向き合う時間を大切にしてください

          簡単にいわれていること

          「自分を大切にしましょう」 この言葉を見ない日があるだろうか。それだけ膾炙《かいしゃ》されている言葉であるのに、内実を理解し実行できている人はどれだけいるだろうか。 今回は、皆がわかっているができていない「自分を大切にすること」とはどういったことなのかを検討していこうと思う。 自分の構成要素 まずは、大切にするべき対象としての「自分」を構成しているものについて考えることにしたい。 精神力・体力・時間 この3つに絞られると考えられる。 さらに、自分を取り巻く「環境」

          簡単にいわれていること

          ここではない遠くへ行くために 切符を手にするために わたしは毎日歩み続ける

          ここではない遠くへ行くために 切符を手にするために わたしは毎日歩み続ける

          祭りのあとの静けさ

          祭りのあとの静けさ

          活動二周年振り返り

            はじめに 昨年の振り返り(https://note.com/shiru_life/n/ne3ca6b61bdf8) から、早くも一年がたったことになりました。  読者の皆さんから見て、わたしはどの程度成長することができているでしょうか。  残念ながら投稿数自体は減ってしまっているのが現状ですが、ひとつひとつのクオリティーは相対的にみて上がっていると信じています。  依然として数字に囚われてしまっているのは相変わらずな点ですが、みえる景色も変化しました。 変化 創作の

          活動二周年振り返り

          カッコつきの

          前に進むためにはある程度の苦労が必要になりそうだが、それは果たして苦労や、あえてこの言葉を提示するなら「努力」なのだろうか。 わたしは「努力」というマッチョイズム全開な言葉が苦手であるし、言葉だけでなくその営為じたいも苦手であったりする。 「努力」が好きでやっている人はいるのだろうか? カッコつきの「努力」はあえて、特別と違和感をもっていただきたいからこのように表現している。 したくないのにする「努力」は無理が生じ、それが歪みとなって自分の 〝精神の自由〟が蝕まれてい

          カッコつきの

          ある対象の成立の仕方を描いてしまったら、それはもう必要以上に、成立の途中が透明に見えてしまっている、そしてそれを表現した表現者自身は、あたりまえだが、過剰に成立の仕方を見せて〝しまって〟いるだろう。そこにある過剰な透明性は、我々の想像力を断絶してしまっている。

          ある対象の成立の仕方を描いてしまったら、それはもう必要以上に、成立の途中が透明に見えてしまっている、そしてそれを表現した表現者自身は、あたりまえだが、過剰に成立の仕方を見せて〝しまって〟いるだろう。そこにある過剰な透明性は、我々の想像力を断絶してしまっている。

          迷走している最中にあげた作品はその迷走の片鱗が見えてしまうのでよくない。

          迷走している最中にあげた作品はその迷走の片鱗が見えてしまうのでよくない。