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『晩年感覚』 1太宰治 背中越しの晩年1/2

  (笑う、声をあげて笑うとき、
  わたしたちは笑いが自分の身体に降り注いできたように感じる。
  それはまるで、気象現象が地表を覆うような方法で
  わたしたちに訪れる。
  微笑ならば、それは霧のように頬の周囲に発生し、
  僅かにわたしたちの口元を濡らし蒸発していく。
  唇の微かなひきつりは、
  水分の蒸発とともに身を反らす紙のうごめきに 似ている。
  
  だが、気象現象が度重なれば予知が可能となるように、
  わたしたちは自らの反応を見越すことができるようになる。
  笑っていると感じながら笑い、
  微笑んでいると感じながら微笑むことができる。
  自ら進んでそういう性癖を体得することさえできる。
  天災を忌避しようとするように
  突発的な身体行為を飼い慣らしたいならば、
  そういう傾向は歓迎すべきものだ。
  なにも好き好んで天災にまみれる必要もない。

  しかし、
  身体運動に併行できる意識ははたして
  微笑を微笑のままで保管していられるものだろうか。
  微笑を嘲笑に変容させたりしないものだろうか。
  わたしたちは常に身体から遅れて意識しなければ
  自らの動きを変質させてしまう危険を孕んだ運動体である。
  伸びやかに行為させるには意識を介在させないのがいい。
  わたしたちの動きは
  内省の光のもとで隈なく照らし出されてしまえば影を失い、
  明晰な表象と化してしまう。
  わたしたちが実体的なままでいようとすれば、
  過剰となって行為へ雪崩込んでいくか、
  内省の追跡からの余剰を保持できるかの
  どちらかの方法を選択しなければならないのだ。
  
  わたしたちは若さに追いつかない。
  わたしたちは若さを豊饒として誇ることはしない。
  あらかじめ与えられる豊かさとして若さを知ることは
  わたしたちを変質させる。
  わたしたちはまずわたしたちから奪う、
  失くすものがなくてすむようにと。
  そうして喪失がわたしたちの習性となる。
  剥ぎ取った豊かさが逆流してこないようにと
  わたしたちが身に備えているもの、
  それが晩年感覚の安全弁だ。
  しかしその防御は別の痛みを喚起する。
  死と孤独の観念だ。)

 生まれてくるところから考えてみよう。わたしたちはいやいやながらなのかそれとも嬉々としてなのか判断できない状態で生まれてくる。月日が満ちて生まれてくるところをみると、夕空に浮かぶ月の意思で生まれてくるのかもしれない。いずれにしろ、わたしたちは生を授かるという形で生まれてくる。これは受動的な生まれ方だ。生まれてくる当人の責任の所在が明らかでない。困難に出会うと出生そのものを受難の始まりと考えたがる者がいるのは、この生まれ方に起因している。
 では、意志的な生まれ方が可能だとすれば、自分の生に始めから個体的な所有観をもたせようとするならば、それはどのような虚構のもとで可能か。芥川龍之介『河童』から河童の出生方法を学んでみるとしよう。

  河童もお産をするときには我々人間と同じことです。やはり医者や産
 婆などの助けを借りてお産をするのです。けれどもお産をするとなる
 と、父親は電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこ
 の世界へ生まれて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ。」と大き
 な声で尋ねるのです。

 このような問いは、生まれてくる意思の強度を忖度する。尋ねられる赤子は思案し、もし生まれたいのであれば世界に参加することができるし、自分の人生に分がないと判断すれば中止することもできる。実に能動的な生まれ方だ。だから河童は「ええ、人生には当たりはずれがございます。そして、人生とは、そのはずれくじを引いてしまった人間が、そのことを結果としてひっくり返してしまう為にあるのです。」(橋本治)というような種類の、極めて克己的な思想を内蔵して生まれてくることになる。わたしたちの人間世界では、思想はあとで自ら形成していかなければならない。自分の生きる形を自分で決定していかなければならない。別の言葉で言うならば、選択した結果が集成する恣意的な形に耐えなければならないし、耐えられなければ変更していくことになる。形か感受性のいずれかを。
 だからわたしたちの生きる形はわたしたちの欲望の形をしているのだという原則をはっきりさせておく方がいいだろう。部分的に増殖に増殖を重ねて鋭角な先端を獲得していく欲望もあるだろう。それはどこかの厚い壁に届いてその厚みを貫くことができるかもしれない。あるいはただ、自己模倣を繰り返すことに終始してしまうだけかもしれない。また、明確な形をとれず希薄な気体状のまま漂う欲望もあるだろう。それは大気の漂いとともに自在に運動することができるかもしれない。あるいはただ、大気の漂いの激しさに分断されて収拾不能なまでに希薄になっていくだけかもしれない。

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