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前田弘二監督『くりいむレモン 旅のおわり』(08)

( 前田弘二監督の新作『こいびとのつくりかた』公開にあわせて、過去エントリーの再投稿・その 1です。  )

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90年のじんのひろあき版『櫻の園』(以下、じんの版)が嫌いでした。ひっくるめていうと、これみよがしなやり口に反発をおぼえてたし、女の子たちが素材としても描き方としてもちっとも魅力的に思えなかった。
で、リメイクとなった関えり香版『櫻の園』(以下、関版)を期待して観てみたら、当時じんの版を否定していたことをすこし反省した。関版は、冴えたところのないテレビドラマだと思った。会話で全てが説明される。全編、説明につぐ説明。じんの版の登場人物たちは、少なくとも説明のための道具ではなかった‥。

説明は、オウム返し、ストレートな疑問形、「ふうん/へぇ」等の相槌を利用して会話に変換される。寡黙な主人公・桃/福田沙紀に代わって担任の菊川怜が桃のプロフィールを“桃本人にむかって”滔々と説明する‥。戯曲「櫻の園」の説明、学校のしきたり、生徒のポジション等‥。たとえば、古い「櫻の園」の脚本を見つけた福田沙紀が姉の京野ことみと会話し、昔あった「櫻の園」上演の試みを知る場面。「こんなの見つけた」「えっ?それ」「あかずの教室ってとこにあったんだけどね」「あかずの教室」「脚本と演出、坂野先生ってすごくない?」「先輩、演劇部の部長だったからね」「ねぇねぇ、平成9年ってことはさ、お姉ちゃんコレみた?」「ううん」「え?」「やらなかったの、そのお芝居。あんなに稽古したのに」「稽古したって?」「演劇部だったからね」「そうだったの?」「覚えてないか?あの頃の桃バイオリンで忙しかったから覚えてるわけないよね」‥。
夕暮れ。駅前で柳下大がカッコつけてサックスを披露しているが‥その曲は上戸彩の歌(夢のチカラ)‥いくらオスカー主導とはいえ、この段階で真面目にこの映画につきあうのを諦めました。

オスカーが牽引した企画なわけだし、どうせなら商業映画として正面から通俗を引き受けて美少女クラブ31メンバー総出演でやればよかったのに。製作委員会方式が裏目に出た、面白くもないバランスのいいキャスティング(オスカーの顔を立てたかのような上戸彩・米倉涼子・菊川怜などという特別出演枠は、初々しくなければならないこの企画にはマイナス要素だとおもう)が効果的だったのか、自分が観たときは松竹らしい、熱気のない辛気臭い客層でした。

説明のために色分けされ役割分担されたに過ぎない記号としての人物の言動/行動からは、エモーションが駆動せず、あらかじめ用意された物語を“感情らしきもの”で上から撫でるだけで、青春の鬱屈も不安も憧れも、「青春映画を構成する定形的パターン要素」としてルーティン的に扱われただけという印象(途中まで進んでいたという新・じんの版のほうが観たかったと観たあとで思った)。

人は、青春の大事な場面でさえ、有意味な言葉などそうそう口にしないし、状況説明ばかり話しはせず、気持ちはまた別にある。日々の生活や関わりのなかで、思いが推移し、摩擦をおこし、うつろうさまを、直接的な言葉のやりとりとはべつのところで、人の感情の「ほんとう」を映しだそうと試みる井口奈己監督『人のセックスを笑うな』のような(反・関版、的な)映画は、たいへんスマートで豊潤、じつに立派に「映画的」な感慨を与えてくれますが、しかし、このような映画が指向する「リアル」や「映画的」は、今や、あらかじめ分かりきった正解に向けて、勝つに決まってる解答を組織する、閉じた「安全さ」と化してしまっている気がする。「あるある」を拾い上げ、傑作素を結合させて、共感作用をたっぷり効かせるという基盤のうえで安心して楽しめる「奇跡のような、素晴らしいシーンの数々」。これが2004年辺りならアリだったかも知れないが、2008年には既にどこかズルイものと映った。

『女』『古奈子は男選びが悪い』『遊泳禁止区域』などの中短篇で、すでに天才の誉れ高い前田弘二も、イメージとしては一見、「いまどきのリアル」、「いまどきの審美」に与した「あるある的」共感作用に依拠した映画作家に見えもします。前田弘二(と高田亮)による、非中心化作用をもつ“リアルっぽい会話”場面は、いかにも「あるある的」に受容され称賛を得ることで、観客の「消費」がその段階で安心して終了することもじゅうぶん考えられる類いのものとも言えるでしょう。
もちろん、前田映画の会話/(ディス)コミュニケーション劇はーーたとえば山下敦弘/向井康介コンビの映画における登場人物たちの絶妙な会話が、根本的にはひとつの人格の複数のバリエーション間での会話であり、彼ら登場人物たちの用いる言葉が結局のところひとつのセンス、ひとつの文体として共通のものとしてあって、それが統合されてある種の“作家の文体”が確立される助けともなっていますが、そのような理由から、山下/向井映画においては本質的には摩擦や成長のない世界が築かれているのとは異なりーー前田映画のそれは、 それぞれべつの人生をそれぞれなりに刻んできた異なる人格、異なる思考/嗜好/志向回路をもつ人格と人格による、それぞれ違う意味合いでの関係性構築のための遭遇を組織しようとする摩擦的「闘争」としてあり、複数の人物による無方向的に発された言葉群のブラウン運動は非中心化を促し、表面的には「噛み合ってるような噛み合ってないような、リアルな、気まずい、滑稽な、自然で無為な会話」として顕れてみえますが、そこには「同じ場所/時間を共有する複数の人と人のあいだのコミュニケーションは、異なる免疫をもった者として対峙するため(そしてそれゆえ尚且つ、異なる志向をもってその“場”に臨むため)、非・融合的に生じ、本質的に“必ず”噛み合わない」といった冷徹な認識があるとおもう。
「自意識の滑稽な空転」が、山下/向井的な作劇では創出者のパーソナリティに「偶然的に」起因するが、前田/高田的作劇においては創出者の世界把握に「必然的、宿命的に」帰結する。

前田弘二待望の商業長編映画デビュー作である『くりいむレモン 旅のおわり』は、女子高生たちの無駄話シーンの素晴らしさに眩惑されて、つい、いわゆるリアルな会話でその映画が構築されていたような印象をもっていましたが、観なおしてみるとこの映画における主要人物同士の会話はあんがい必要的・説明的で、これまでの短篇群では、ワン・シチュエーションのコントとして説明的な台詞は極力排除したままでも押し切ることが出来たのに対して、ここでは、「長編」映画として物語を語るために、異なる人格間の非・融合的な接触を長い射程をもって描出するさいにある程度「説明的」であることも引き受けられていると思えます。これは前田/高田が「いまどきのリアル」の信奉者なのではなく、他者とのコミュニケーションは非・融合的に為されるという世界把握を揺れずにもっていることの証左だと言えるんじゃないでしょうか。

『くりいむレモン 旅のおわり』での、(前田映画の顔というべき)宇野祥平はお兄ちゃん役としては正直ミスキャストだと思うし、宇野祥平が妹のアヤ/キヨミジュンの手に触れる場面や、カラオケの個室でノブ/榊原順がエリ/鈴木なつみにキスするシーンなどは、段取り臭を払拭しきれず演出としてあと一歩だと感じるし、そしてやはり、説明部分はこなれていないぶん雑談パートとのバランスが危うい。
「説明」を引き受けて物語と感情の推移を牽引しつつも、それなりのリアルと自然さをもって「ほんとう」や「人生モデル」を提示するという闘いかたは、ある意味ごく真っ当な正道であって、既に過去の古今東西の映画人たちが技術的に研磨し積み重ねてきた膨大な歴史(と技術的達成)があり、そこに正面から挑むのは、正直勝ち目の見出だしづらいシンドイやり方だと思えます。歴史性に接続の必要のないような、「あるある的」に「独自の人生モデルの提示」を「センス競争」としてやっていれば、天才的なセンスをもつであろう前田弘二なら、その高評価を維持したたましばらくはたやすく闘い得たでしょう。

しかし『くりいむレモン 旅のおわり』では勝機の見える見えないではない難しいところでの勝負に出た。そうしてそれゆえ、『くりいむレモン 旅のおわり』が単なるセンスに留まらない、いろいろな感情がはみ出すような映画になりえたんじゃないか。おなじ兄と妹の近親相姦ドラマとして、演技や描写のクオリティでは『誰とでも寝る女』が上かもしれないが、感情を動かす力では『旅のおわり』が遥か上をゆく。ネタとほんとうの人生くらい違うとおもう。

そして特筆すべきは人物たちの風景への沈みかた。通常、記録映画でさえも(商業用劇映画ならなおさら)、主要人物を風景や通行人から浮き立たせる作用をその画面はもつ(スター化、肯定作用)わけですが、この映画では、しばしば登場人物たちが風景に、雑踏に、均一的に埋没してしまう。この、画面内での人物の非・特権化、非・中心化は、表象としての埋没とともに、べつの作用をうながします。
駅で切符を買うアヤと、少し間をおいてそれを追うノブが映りこむ駅前の画面。あるいは、アパートに車で帰ってきた兄との屋外での再会場面。中野駅構内でばったり逢うエリとノブの、画面での有りよう。そして、原宿駅からの皆での『遊泳禁止区域』ぽい歩みの場面も、人々が徐々に雑踏の風景に沈みこんでゆく‥。
そして非・中心化を被って均一的に「自然化」した画面を、うっすらと、アヤの抑えながらも上ずった“せつない”感情が、すべておおいつくす。友達との楽しげで無内容な会話の場面でも、兄と交わす無難な近況報告の対話場面でも、その会話内容やその自然さもしくは説明的なさま、あるいはその場に支配的な空気/気分といったものといっさい関係なく、画面は、アヤの“せつなさ”に感染し、映画そのものがせつなさと気まずさに染まり尽くす。

やがて、兄への恋慕が破綻(前述のように、異なる人と人の思いは“必ず”非・融合的に帰結する)するあたりから、主にアヤの“せつなさ”のトーンに染められていた「感情そのものとしての画面」が、それこそ非・融合的に異なる色彩の感情に混濁しはじめる。アヤと兄の関係に苦しめられつつエリの性に引き寄せられるノブと、年上の彼氏がいながらもノブにある種の繋がりを感じるエリの感情が、混じりゆくことなく侵食してくる。

そうして神社で対峙する三人の交わす会話は、自分でない他人は、自分の想定や想像とは違うシステムでおもいを抱いているという非・融合的な世界把握を反映した最たるものとなります。

ノブ「一つ聞きたいんだけどさ。オレら付き合ってんの?」
アヤ「ノブはどうなの?エリと付き合いたいの?エリは‥‥エリはノブのこと好きなの?」
エリ「ノブはどうなの?」
ノブ「アヤは‥‥オレと付き合ってる?なあ?」
アヤ「でも」
ノブ「オレはオマエがどう思ってるか知りたいんだよ」
アヤ「‥‥‥付き合ってる」

ラスト、ホテルでのふたりは、お互いに相手の“ほんとう”のところを知りたいのか、そして、すべてを知ることが、何か関係や感情を解決的に幸福に導くのか、異なる他者の“ほんとう”に接することに自分は耐えることが出来るのかと、魂の有りようを試される。なんとなく分かった気になる平和な融合などいつわりだと『くりいむレモン 旅のおわり』の作者たちは登場人物たちに突き付ける。他者と関わることが苛烈な傷となる融合か、孤独な非・融合か。答えは出ないまま、傷だけは負い、温もりへの“さびしさ”だけは確かに抱いて手と手は繋がれ、ふたりは均一な雑踏へと消えてゆく。「感情そのものとしての画面」の連なりである『くりいむレモン 旅のおわり』は、その映像からも音響からも、何の意味指示作用も発信しない。その均一的で“貧しい”画面には、「意味」や「答え」はなく、何かの途中にある誰かの痛みのような感情だけが、ある。

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2009/10/05自ブログより転載

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