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死の受付嬢。

 夜のドヤ区域は、じめっとした空気に汚さを感じる。エリア中に漂う小便の臭いの所為もあるのかもしれない。
 カメラを首から下げ、簡易宿泊所に挟まれた道を歩く。泥濘んだ地面を踏む度、スニーカーの底を洗い流してしまいたくなるぐらい、拭い切れない不快感がある。
 道脇を、ブルーシートの上に怪しげな商品を広げる売人達が陣取っている。
 進むにつれ、ブルーシートは減り、あれ程飛び交っていた喧騒が存在感をなくしていく。
 やがて、静かになった。変わらず、簡易宿泊所は立ち並んでいるが、ここら辺ならドヤ区域の中心地より暮らし易そうだ。
「うぐ、ぐぐぐ……が、がに……」
 右側から呻き声のようなものが聞こえ、視線だけで音のする方を見た。
 道脇に置かれた街路灯の下に、般若を付けた上裸の大男がいた。足元には「眠」という文字が刻まれた、からからに干涸びた黒色の林檎が1つ。
 逞しい白色の髪と髭を貯え、腹の張り出した彼は、自らの首を自らの両手で締めていた。
「うぎぐ、が……がに、ぐぐ……」
 しかも、彼の太い腕に浮き出る血管を見る限り、かなりの力を込めているのが分かる。
 自殺を試みているのか、はたまた、自分の首を絞めることに興奮する特殊性癖の持ち主か。
 気になったので、彼のいる反対側にある簡易宿泊所と簡易宿泊所の間に身を隠し、成り行きを見守ることにした。
「……ん?」
 般若の大男の正面に、こちらに背を向けるようにして立つ大男が目に入った。
 こちらもやけにでかい。2メートルぐらいはあるんじゃないだろうか。般若の大男よりも、10センチ程でかい。灰色の革ジャンを着た彼は、がしかじと頭を掻いたり、首を左右に揺らしたり、苛立っているように見える。
 僕は思わず、革ジャンの大男にカメラを向けた。興奮して震える指で、何とかシャッターボタンを押す。
 彼を知っている。ただの都市伝説だと思っていた。「湿気の街」のドヤ区域を拠点に活動する殺し屋、「首狩り屋」だ。生まれ付きなのか、カラコンなのか、虹彩が濃紺色になっている。その目で殺害対象者を見つめ、催眠術をかける。そうして、殺害対象者自らの手で、自らの首を絞めさせる。己の手を汚さない、都市伝説と化した殺し屋。
 しかし、と思う。人気のない夜道とは言え、道の脇でこんなに堂々と殺人行為を行なっていいのだろうか。苛ついている姿も引っかかる。
 ぐりゃ。
 何かが潰れるような音がした。
 般若の大男の足元に転がっていた黒林檎が、泥濘んだ地面に塗れながら跡形もなくなっていた。
「……あ」
 ぐしゃぐしゃになった黒林檎を見て、首狩り屋がそう呟いた瞬間、
「んぐあっ!」
 般若の大男が自分の首から離した右手で、首狩り屋の左頬を殴った。不意を突かれた首狩り屋は、倒れそうになる身体を引いた右足で何とか支えた。
 睨み合う、2人の大男。
「目を見ろ」
 首狩り屋がそう言った直後、今度は般若の大男の左拳が彼を襲った。首狩り屋は上半身を後ろへ逸らし、攻撃を華麗に躱す。だが、すぐに飛んできた右拳は、首狩り屋の腹を掠った。
 首狩り屋が距離を取る。2人は再び睨み合う。
「はぁ……」
 首狩り屋は何かを諦めたように溜め息を吐くと、両手で両目を覆った。
「あーーーあーーーあーーー」
 すると突然、無感情に大声を出した。数秒後、不意に黙ると静かに顔を上げた。
 僕のいる場所からでも分かる。いつの間にか、首狩り屋から何本もの針が彼を覆うような鋭い殺気が、放たれていた。
「今日は機嫌が悪い……今日は機嫌が悪い……」
 首狩り屋は顎を下げ、見上げるように般若の大男を見た。
「今日は機嫌が悪い」
 その言葉を合図にしたかのように、向かい合っていた2人の大男が同時に走り出した。
 般若の大男は右拳を前へ突き出し、首狩り屋が右膝を突き上げる。右拳は首狩り屋の左頬へ、右膝は般若の大男の腹の中央へ直撃した。泥濘んだ地面に片膝をつく般若の大男、膝を曲げて倒れることを防ぐ首狩り屋。
 均衡している。2匹の化け物の力が。肉体労働で鍛えられた日雇い労働者VS都市伝説になるまで暗躍した殺し屋。ドヤ区域の怪物VSドヤ区域の怪物。
 唸り声を上げながら拳を振るう般若の大男と、殺意を放って無言で蹴りを入れる首狩り屋。
 首狩り屋の唇が切れ、血が流れ、頰が腫れる。般若の大男は自らの突き出た腹を左手で抑え、右手での攻撃に集中する。
 互いに1歩も引かない攻防が続く。
「ひっぐ……」
 突然般若の大男が内股になって、その場で震え出した。首狩り屋の膝蹴りが男の急所へ命中したのだ。
 首狩り屋は、チャンスを逃さなかった。
「うがああああぁぁぁあああぁぁああぁぁぁああぁぁぁああああぁぁあああぁぁああぁぁっ!」
 無言で戦っていたのが嘘みたいな雄叫び声を上げて、首狩り屋は般若の大男めがけて全力疾走した。般若の大男の前に来た瞬間、首狩り屋は両手を広げて、内股で震える彼に体当たりした。般若の大男の体勢が崩れ、1つになった2人の勢いは加速した。
 2匹の怪物が、宙を舞った。
 そこからはまるで、スローモーションになったような感覚に囚われた。
「う が あ あ ぁ あ あ ぁ ぁ あ ぁ ぁ あ あ あ ぁ ぁ ぁ ぁ あ ぁ っ !」
「う お お ぉ お お ぉ お ぉ お お ぉ お お お ぉ お あ ぉ お ぉ っ !」
 叫びながら、2人は、背後にあった、簡易宿泊所の、硝子製のドアへ、突っ込んだ。押された、般若の大男の背中が、ドアの硝子を、割った瞬間、
 全ての速度が元に戻った。
 がじゃあぁんっ!
 静かだったドヤ区域に激しい音が響き渡る。2人がドアの硝子を破って、簡易宿泊所の中へ勢いよく転がり込んだ。
 ここからじゃよく見えない。僕は道の反対側、2人の大男がいた側に立っている電柱に身を隠し、簡易宿泊所の中を見た。
 フロントに、割れた硝子が散らばっている。その中で2人の大男が大の字になって倒れていた。小さな受付には、やる気のなさそうな女が無感情で2人を見下ろしていた。
 ふらふらと立ち上がる2人の大男。どこにいようが、誰に迷惑をかけようが関係ない。ドヤ区域の怪物は止まらない。
 2匹の怪物が、片足を引いた。
 そして、目の前にいる敵に飛びかかろうとした瞬間、
「うがあああぁぁああぁぁあああぁぁっ!」
「うあぁぁあああぁぁあああぁぁあぁっ!」
 首狩り屋と般若の大男の絶叫が、小さくて小汚いフロントに響き渡った。
 彼等の間に、受付にいたあのやる気のなさそうな女が立っていた。細い両腕を広げて。彼女の両手にそれぞれ握られているのは、黒色のペンチ。黒ペンチが挟んでいるのは、2匹の怪物の片耳。
「ひぃ、ひぃぎゃああぁぁああぁぁぁっ!」
「ひぐああぁぁああぁぁああぁぁあぁっ!」
 あれ程殺意に満ちて暴れ回っていた化け物達が、痛みに泣き叫んでいた。
「あぁ……もしかして……」
 女を見て、思わずそう呟いていた。
 常に眠そうな目、しっかりと黒い隈、かさかさの唇、細い身体、真っ白な髪、ゴシック・ファッションと言うのだろうか、黒を基調としたドレスのような衣服とアクセサリー、2つの黒ペンチ。
「……『死の受付嬢』」
 まだ20代なのに今にも死にそうな見た目から、彼女はこの街の人々にそう呼ばれている。むさ苦しい男ばかりが暮らすドヤ区域では、ちょっとした有名人だ。
 ぶちちちちちち、という音が聞こえそうな光景だった。右耳を挟まれた首狩り屋、左耳を挟まれた般若の大男。死の受付嬢が黒ペンチを捻る度、彼等の片耳が痛々しく剥がされていく。傷口からどくどくと赤黒い液体が流れ、彼らの頬を伝って白色の床にぽたぽたと垂れている。
「私の彼のドヤを穢した」
 びちちちちちち……。
 怪物達の耳が引き千切られていく。
「私の彼を穢したことになるの」
 絶叫と涎が、彼等の口から溢れ出す。
「穢したら、許されない」
 死の受付嬢は、彼女が受付をする簡易宿泊所の帳場さんとセフレ関係にあるらしい。どうやら、彼女の帳場さんへの想いは本気のようだ。帳場さんに妻がいることは知らないのだろうか。
「私が、許さない」
 死の受付嬢は黒ペンチを更に捻った。
「あがあぁぁああぁぁあああぁぁああぁあぁぁっ!」
「いひぃいいいぃぃぃぃぃいいいぃいぃぃいぃっ!」
 首狩り屋と般若の大男の耳は、もう半分以上取れていた。それでも、死の受付嬢は手を緩める気はなさそうだ。
「あ」
 不意に、死の受付嬢と目が合ってしまった。光を全て飲み込んでしまうような瞳が、僕を餌食にしようとしていた。
 僕は動けずに、電柱の後ろから死の受付嬢を見続けていた。
 彼女が右側に首を傾けた。
「あなたも穢した?」
 そう聞かれているような気がして、首を左右に振って後退った。
 死んだような顔の彼女が、微笑んだ。
 耐え切れなくなって簡易宿泊所に背を向け、その場を後にした。
 静かなドヤ区域には、未だに絶叫が響き渡っている。耳を取るまで続けるのだろうか。考えただけで悍ましくなって、走り出した。
 夜のドヤ区域は、じめっとした空気に汚さを感じる。それでも今は、その汚さに安心感を覚えている。



【登場した湿気の街の住人】
 
・湿度文学。
・般若の大男
・首狩り屋
・死の受付嬢

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