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熟れた林檎とアイスピック。

「食べるかい?」
 シルクハットを被った男がくれた、よく熟れた真っ赤な林檎。
 僕は躊躇なく頬張った。
 体内から暴力的な衝動を湧き起こしていた、圧倒的な食欲が甘い果実で満たされていく。
 あまりの気持ちよさに涎をダラダラと垂らし、泥濘んだ地面を転げ回る。
 湿気と泥でぐちゃぐちゃに汚れていくことさえ、病み付きになっていた。
 僕は天国へ昇ってしまうようなこの抗えない快感を、空腹から来るものだと思っていた。
 林檎を食べただけでこんな風になるなんて、馬鹿でも分かるぐらいあり得ないのに。

*

 突如、我に返った。
 どぶ臭い路地裏、室外機のファンの回転音、紫色の蛙の鳴き声……。
 どろどろとした現実が一気に降りかかってきた。
 真っ黒な窓から目玉がぎょろりとこちらを覗いた。それはとても大きくて、僕を責めるように睨み付けた。
 怖くなった。
 両手で顔を覆い、その場に蹲み込んだ。
 ぎょろり。
 見なくても分かった。
 ぎょろり、ぎょろり。
 暗闇からこちらを睨む目が増えていく。
 ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり。
 憎悪、悪意、殺意……。
 ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり。
 殺される!
 ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり、ぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろりぎょろり、
 ぎょろり。

 あの林檎は、恐怖を狂気に変える麻薬だった。

*

 ぶちゅ。
 手に伝わる、突き刺し、潰す感触。
 これが現実のものじゃないのは分かっている。そこまで僕は終わっちゃいない。
 真っ暗な窓が沢山ある路地裏。
 そこから覗く無数の目。
 もう怖くもなんともない。むしろ、もっとあって欲しいとすら願っている。

*

 狂気に侵されていた毎日。
 錆と黴だらけの路地裏で、濃紺色のペストマスクを被った男からアイスピックを貰った。
「視線なんて潰しちゃえ」
 あの日から、僕の世界で狂気が狂喜に変わった。

*

 僕を苛む視線の根源をアイスピックで潰していく。
 快感だった。
 あれ程狂ったように探し回った林檎のことなんて、すっかりどうでもよくなっていた。
「依存する物が変わっただけ。お前は未だに中毒者だ」
 そう言ってくる奴がいるかもしれない。
 でも、よく考えてみろ。
 熟れた林檎とアイスピック。
 どっちが健全で、どっちが気持ちいい?
 そんなの考えなくたって、答えは簡単だろ。

*

 ぶちゅ。
 見なくても分かる。
 麻薬的な狂気が潰れる音だ。



【登場した湿気の街の住人】

・アイスピックの少年
・シルクハットの林檎屋
・ペストマスクの男

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