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トレンチナイフの林檎屋。

 古びた受付に置かれた、真新しい呼び鈴。
 私は無言で、その半球の中央部にある突起に下ろした人差し指に力を込めた。
 ちぃぃぃっ……。
 右横に伸びる黄ばんだ廊下に、脳に響くような鋭い音が木霊する。
 ぎぃぃいぃぃぃぃ……。
 すると、廊下の両側に取り付けられた全ての木製ドアがゆっくりと開いた。
 ドアが閉まると、それぞれのドアの前に1人ずつ、赤装束を着た人が俯きながら立っているのを確認出来た。
 私は彼等に背を向け、受付の左側の壁に取り付けられた木製ドアに向かって歩き出した。同時に背後から足音が近付いてくる。廊下奥からは階段の軋む音も。
 ドアの前まで来ると、銀色の円柱型のドアノブを握って捻った。
 新品のように、何の抵抗もなくドアが開く。
 上へと続く薄暗い階段が、私達を静かに見つめていた。
 両側の壁の上部には、等間隔で青白い光を放つ蛍光灯が取り付けらている。全面コンクリートで出来たその空間から漂う冷たさが、私には寂しく感じられた。
 無言で階段を上がっていく。後ろにいる人々も私に倣う。足音だけがその場に響く。
 1番上には、赤色のペンキで塗りたくられたコンクリートのドアが待ち構えている。
 私はコンクリートで造られた円柱型のドアノブを捻り、前へ押した。こちらも何の抵抗もなく開く。
 そこには、体育館程の広さの直方体の部屋がある。
 部屋の中央には、大量の椅子が山のように積み重なっている。小・中学校に置いてあるような椅子だ。
 椅子の山の周りには、円を描くようにして外側を向いた同じ椅子が並んでいる。
 私の後ろを歩いていた人々は、円になった椅子の前にそれぞれ向かい合うようにして立った。
 私は椅子の山の先にある、山を向くようにして並べられた3脚の椅子へ向かった。私の後ろを、少年と少女が付いてくる。
 椅子の前まで来ると、山の方を向いて立った。私は真ん中の椅子の前、少年は私から見て左側、少女は右側の椅子の前に。
「これより、『聖なる林檎』様への祈りを捧げる」
 にやにやと不気味な笑みを浮かべながら、少年が山の周りにいる人々に言った。
「禁断の果実に、憂なき救いを」
 山の周りにいる人々は、不気味な笑みの少年に続き、声を合わせて復唱した。
「禁断の果実に、憂なき救いを」
「着席」
 不気味な笑みの少年に従い、私を含め彼以外の人々は椅子に座った。山の周りの人々は山に背を向けるようにして、正面を無言で見つめている。
「禁断の果実を」
 不気味な笑みの少年の声を聞いて、山の周りの人々は、右手に持った林檎を肩に並行になるように、腕をまっすぐ伸ばして突き出した。
「願いの咀嚼を、救いの嚥下を」
 山の周りの人々が、それぞれ持っている真っ赤な林檎を一心不乱に食べ始めた。
 しゃりゅしゃりゅしゃりゅしゃりゅしゃりゅ……。
 心地のいい咀嚼音が、体育館程の広さの部屋に響き渡る。
「ふぁっ、ふぁっふぃっ!」
 誰かが奇声を上げた。
「ひぎぃっあっ、ひぎぃっ!」
 それに続くようにして、また別の誰かが。
 山の周りで、奇声の輪が広がっていく。
 1人の男が立ち上がり、隣の椅子に座る女の右頬を殴った。別のところでは女が男に噛み付いた。男同士が揉み合い、女同士が引っ掻き合う。殴って、蹴って、噛んで、引っ掻いて耳を引き千切り背中の肉を捻り目玉を集中的に殴り手の小指を足で踏み骨を折り……。
 山の周りで人々が暴れ出した。近くにいる人間を、なりふり構わず襲い狂う。
 ここは、「林檎教」アジト。ドヤだった廃墟を、私達が活動する施設にした。
 林檎教とは、憂いを抱えた人々を救済する教団。溜め続けた憂鬱を否定し、抑えられてきた欲望を肯定する。
 現在行っているのが、まさに欲望を発散させる聖なる儀式だ。ここでしか手に入れることの出来ない聖なる林檎を信者達に食べさせ、身体から憂鬱を浄化させる。理性を吹っ飛ばし、欲望を解き放つ。
 ある者は暴力を振り、ある者は奇行に走り、ある者は性行為を行う。
 獣になった人間の姿こそ、聖なる林檎様が求めるもの。

*

 10分程経過し、部屋が静かになった。
 山の周りに、疲れ果てた者や死体が円を描くようにして転がっている。
 林檎の効果が切れた頃か。
 私は椅子から立ち上がると、右手に持ったトレンチナイフで、左手に持った林檎を突き刺した。
「聖なる林檎様、帰還せり」
 私の言葉が、部屋に響いた。
 だがもう、大半の信者が反応出来る程の状態ではなかった。
「『遺袋乙女』、遺体の処理を」
 私は右側の椅子に座る少女に言った。
 老婆のように背筋の曲がった少女、遺袋乙女は「承知ー」と軽い声で言うと、信者によって作られたサークルへと向かっていった。
 遺袋乙女が、手際よく生者と死者を判別し、死者を赤色の袋に詰めていく。
 私はその光景を、ただ眺めていた。
 足りなかった。虚しくて虚しくてしょうがなかった。どれだけ林檎を食べようと、私の欲望は満たされないような気がしていた。
「『トレンチナイフの林檎屋』様」
 不気味な笑みの少年が話しかけてきた。
 彼を見ると、彼は窓の外に目をやった。私も自然に彼の視線の先を追う。
 ドヤが立ち並ぶ夜道。道脇に敷かれたブルーシート。酔っ払いや、奇声を上げる日雇い労働者で溢れ返っている。
 その中で、一際目を引く存在がいた。
「……あ」
 シルクハットを被った男。
 上下黒色のスウェット姿だが、確実に周りの人間とは放っているオーラが違った。彼からは、目に見えるぐらいのカリスマ性が放たれていた。
 股の辺りが、疼いた。
 林檎教教祖であるシルクハットの男が林檎教から去った日から、私は彼を捜し続けた。ある情報屋からドヤ区域にいるという情報を貰い、藁にも縋る思いでここに来た。彼には会えなかったが、情報を信じて、林檎教の拠点をドヤ区域へ移した。そうして、今日、やっと私は彼の姿を……。
 枯渇していた欲望が、満たされていくのを感じる。
 あぁ、ずっとずっと待っています。あなたに林檎教へ誘われた日から、私はあなたの物なのです。そして、林檎教が私の居場所なのです。あなたが林檎教から姿を消した今でも、私が代理で教祖をしています。今度は、私があなたの帰る場所を作る番なのです。この「湿気の街」のドヤ区域で、あなたの好きなショートヘアーのままで、あなたの帰りを待っているのです。
 私は再び、部屋へ視線を移した。
 積み重なった椅子の山、その周りに転がる死体と疲れ切った信者達……。
 まるで、巨大なシルクハットのようだった。



【登場した湿気の街の住人】

・トレンチナイフの林檎屋(トレンチナイフの少女)
・「林檎教」信者達
・アングラ嗜好少年
・遺袋乙女
・シルクハットの男

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