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バレンタインの特別編:闇バレンタインデー。

「チョコ渡す資格なんて、もうないアル」
 ラブホとラブホに挟まれた路地裏。道を照らす唯一の明かりは、両側にあるラブホの電飾看板。
 ころころころ……。
 私はピンク色の妖しい光を放つラブホの料金表に背中を預けて、桃味の棒付きキャンディを堪能している。
「うぅ……私はもう……駄目アル」
 道を挟んだ反対側にある、廃墟ビルのようにぼろぼろなラブホ。その建物の壁にぴったりとくっ付くように設置された室外機の上に、チャイナ服を着た少女が座っていた。
「うぅ……私なんて……うぅ……乙女失格アル……」
 先程からめそめそと泣いているのは、両目を真っ赤にして口をへの字に曲げている童顔の彼女だ。
「うぅ……」
 正直、人のことを気にしている余裕は、今の私にはあまりない。スカートの右ポケットに入れた手を、何度も開いたり閉じたりするぐらい。
「いや、別に……別にだし……」
 うん。そう。緊張なんてしていない。別に大したことではない。
「はぁ……」
 何度自分に言い聞かせても、掌に汗を掻く。大したことだと、思ってしまうことがムカつく。このムカつきは誰に対して? 自分に? いや、あいつか? そんなことをぐるぐると頭の中で考えていたら、
「チョコ渡す資格なんて、もうないアル」
 3本目の棒突きキャンディに突入するまでに何度も聞いたその言葉が、私の耳に切なそうな顔で侵入してきた。聞く度に、可哀想さが増してくる。
「うぅ……私なんてもう……」
「どうしたの」
 耐え切れなくなって、私は出来うる限りの高い声で尋ねた。普通の人にはこんな優しい声色は出さない。わざとらしく私に気付いてもらえるように何度も同じ言葉を聞かされたら、いらいらする。ぶち切れる。
「うぅ……あのねアル……あのねアル……」
 それでも低い地声を高くしてまで優しく出来る要因は、撫でたくなるぐらい可哀想で可愛い彼女の歪んだ顔と、チャイナ服で強調された大きめなおっぱいだ。幼い顔立ちとは反比例するかのように大きめなおっぱい。Dか、Eぐらいはありそうな大きめなおっぱい。大きめなおっぱい。おっぱい。
「うんうん。大丈夫。ゆっくりでいいよ」
 いつも眠そうな顔で横を歩くあいつには絶対に見せない、ゆるゆるに緩めた顔をチャイナ服の少女に向けて安心させる。
 チャイナ服の少女は、両目にいっぱい涙を溜めて鼻を啜った。
 さっきまで無視してごめんね。可愛い。可愛いわ。謝るから、そのぷっくりした頰を撫でさせて。
「今日はその……女の子が男の子にチョコを渡す日アル」
 チャイナ服の少女は、涙声で話し始めた。
 そう。今日は2月14日。バレンタインデー。ここ1週間、湿度の高いこの街ではチョコの売買が頻繁に行われた。チョコと金、チョコと麻薬、チョコと身体、チョコと……。本日は、乙女が全身全霊をかけて行った闇取引が報われる日。闇によって生み出された、バレンタインデー。謂わば、「闇バレンタインデー」。
「でも、でもでも……今年、私にはチョコを渡す資格がないアル。彼に渡すなんて……うぅ……」
 可愛い女の子がこんな顔をしている。一体、何があったのだろう。どんな男が、彼女をここまで追い詰めたのだろう。
「あ」
 ふと、視界の隅で、こちらに近付いてくる人影を捉えた。
 私とチャイナ服の少女がいる路地裏の外、両側にラブホが並ぶ大通りを、獏のお面を被った男がゆらゆらと眠そうに歩いていた。寝癖と藍色のパーカーと灰色のスウェットズボンという腑抜けた格好に、苛立ちを覚えた。
 私と獏のお面の彼は、「狂気処理屋」という仕事をしている。「湿気の街」と呼ばれるこの街には、纏わり付く湿気に耐え切れずに狂ってしまった人間が沢山いる。私が「催眠少女」として対象に催眠をかけ、獏のお面の男が対象の狂気を取り除く。
 獏のお面の男が、待ち合わせ場所、つまり、ここまでもう来てしまう。その前に、チャイナ服の少女の話を聞いてあげないと。あいつがいたら、欠伸をしたり、「眠い」とか呟いたりして気が散る。
 そう思い、チャイナ服の少女に顔を向けようとした時、もう1つの人影が目に入った。
「獏ちゃーん! 獏ちゃーん!」
 俯き歩く街の住人達の間を縫い、子羊のお面を被った少女が眠そうに歩く獏のお面の男の元まで走り寄ってきた。彼女の着る白色のワンピースの下で、ゆっさゆっさと2つの大きな山を揺らして。
「獏ちゃん、捕まえた!」
 子羊のお面の少女は、獏のお面の男の右腕にがしっと抱き付いた。ふわり、とウェーブのかかった薄茶色の髪が舞う。ふにゅう、と柔らかそうな山が彼の腕の形に潰れる。
「お久し振りです」
 獏のお面の男は、左手をパーカーのポケットに突っ込み、股下辺りまで引っ張った。
 バレないとでも思っているのだろうか。
「今日はぁ、何の日でしょー!」
 子羊のお面の少女は、獏のお面の男の右腕から離れずに彼を見上げながら尋ねた。
「え……えぇ、何ですか……」
 分かってる癖に。「僕、全然バレンタインデーなんか意識してませんよ」というスタンスで考える仕草をする獏のお面の男に、更にいらいらした。
「……分からないです」
 あんな女、ただおっぱいが大きいだけじゃん。それのどこがいいの。ただおっぱい大きいだけなのに。私だって寄せればある方だし、女はおっぱいだけじゃないし。たかがおっぱい女に、へらへらしやがって。
「ね、ね、耳貸して」
 子羊のお面の少女は、獏のお面の男の右腕を引っ張った。屈んだ彼の耳元でわざとらしく囁く。
「バレンタインデー」
 地獄耳を舐めないで欲しい。獏のお面の男のぼそぼそした声を聞き取るのに、私の耳がどれぐらいの時間をかけて進化したと思っているの。
 獏のお面の男のパーカーのポケットに突っ込んだ左手が、更に股の下へ向かう。
「あ、あぁ……そうですね。今日はーその日でしたかー」
 下手糞な演技。元からあまり抑揚のない喋り方の獏のお面の男が更に棒読みになる。
 嫌な予感はしていたけど、やっぱりそうだったか。彼女もバレンタインデーの為の闇取引戦争を生き抜いた、乙女戦士。彼女は何を犠牲にして、獲物を狩る為の武器(チョコ)を手に入れたのだろう。
「え、えっと、そのー……では、子羊さんも、チョコを渡すんですね。気になる誰かに。が、頑張ってください」
 必死に「別に気にしてませんよ」アピールをする、獏のお面の男。一体、こんな男のどこがいいのやら。
「うん。そうだよ。準備したの。私の特別な人に」
 子羊のお面の少女は小さなハート型の箱を両手に乗せ、獏のお面の男に差し出した。
「あげる」
「え……ぼ、僕にですか。僕にですか!」
 童貞感丸出しで興奮する、獏のお面の男。もう1度言う。こんな男のどこがいいの。
「うん。獏ちゃんの為に用意したの」
 獏のお面の男はスウェットズボンに両手を数回擦り付けると、震える手で可愛らしいピンク色に塗られたハート型の箱を受け取った。
「ね、食べてみて」
「え、今ですか?」
 獏のお面の男は、驚いたように子羊のお面の少女を見た。
「ん、今」
 彼女のゆるふわ小悪魔的な圧に負けたのか、獏のお面の男は右手で箱の蓋を開けた。
 ここからは、中までは見えない。
「あ!」
 子羊のお面の少女は、今何かを思い付いたような声を出すと、わざらとらしく両手を1度叩いた。
「ね、ね」
 子羊のお面の少女は、獏のお面の男が着るパーカーの右袖を左手の人差し指と中指で挟んで、すんすんと軽く引っ張った。
「あーん、してあげよっか」
「あ、あ、あ……」
 獏のお面の男は思考を停止したのか、子羊のお面の少女を見ながら動かなくなった。
 私も動けなかった。今すぐにでも走っていきたかったのに、恥ずかしさと無駄なプライドが全力で身体を止めた。
「ん」
 子羊のお面の少女は背伸びをすると、獏のお面を口の上までずらした。獏のお面の男が左手で持つハート型の箱の中から、彼女は藍色のハート型のチョコを1つ左手で摘んだ。右手でふわふわの髪を右耳にかけ、
「はい、あーん」
 子羊のお面の少女は、獏のお面の男の小さく開けられた口の中にチョコを入れた。
 圧倒的な敗北感。左手から、するりと棒付きキャンディが抜け落ちた。私の身体を押し潰そうとする、あまりに大きくて重い絶望感に両脚が震えた。
「噛まないで、ゆっくり舐めてねー」
 獏のお面の男は子羊のお面の少女の言われた通り、チョコを舌の上で転がした。
「ふふふ」
 静かに笑う子羊のお面の少女に、違和感を覚えた。
「チョコを舐めながら、私のことを見て」
 藍色のハート型のチョコ、噛まずに舐める、対象に自分を見させる……。
 何だろう。何かが凄く引っかかる。
 気が付くと、獏のお面の男は、分厚い雲に覆われた夜空を直立不動で眺めていた。ゆっくり顔を下ろし、子羊のお面の少女を見ると、
「好きです」
 聞きたくもない言葉が、彼の口から放たれた。
「好きです。好きです。好きです、好きです、好きです、好きです、好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです好きです」
 壊れたロボットのように、獏のお面の男は同じ言葉を繰り返した。
 げこげこげこげこげこ……。
 それに呼応するかのように、彼の周りにいる紫色の蛙が鳴き出した。
「……資格とかない」
 私は獏のお面の男を見ながら、呟くように言った。
「チョコを渡すのに資格なんていらない。必要なのは……」
 チャイナ服の少女に言っているけど、自分にも言い聞かせていた。
「多分、恋心」
 チャイナ服の少女が、どんな顔をして聞いていたのかは分からない。でも、そんなこと気にしている場合ではない。乙女は、乙女には、それぞれの戦場がある。私の戦いが始まったんだ。
「おい! 糞が!」
 私は泥濘んだ地面を力いっぱい踏んで、路地裏を飛び出した。
 俯き歩く住人達を押し退け、子羊のお面の少女を見続ける獏のお面の男の背中へ体当たりをする。
「ふぐっ!」
 獏のお面の男は背中を仰け反らせると同時に、口から藍色のチョコが吐き出さした。どろどろに溶けて、歪なハート型になっていた。
 何とか踏ん張り、倒れなかった獏のお面の男は、不思議そうに私を見た。
「おい! 糞女!」
 私は、呆然とする子羊のお面の少女に近付いた。そして、彼女の股下辺りの地面へ勢いよく右足を振り下ろし、顔を突き出した。
「お前、やったな」
「うわぁっ!」
 どちゃっ。
 子羊のお面の少女は短い悲鳴を上げると、泥濘んだ地面に尻から倒れた。綺麗な白色のワンピースが、様々な液体を含んだ泥で可哀想なぐらい汚れた。
 いつの間にか、蛙の鳴き声は止んでいた。
 地面に両手をついて震える彼女を見ていたら、何だか少し胸が痛くなった。彼女も乙女。これは彼女なりの戦い方だったんだ。
 私は屈むと、子羊のお面の少女の右耳に顔を近付けた。
「『藍のチョコ』」
 彼女は私に顔を向けると、そのまま固まってしまった。
「彼にバレたくなかったら、すぐにここから去って」
 子羊のお面の少女は、私と獏のお面の男を交互に見ると、わざとらしく元気に立ち上がった。
「獏ちゃん! 私、ちょっと用事思い出しちゃって! ばいばーい!」
 子羊のお面の少女は右手を数回振ると、こちらに背を向け、両側んラブホに挟まれた大通りを駆けていった。
「え……え……」
 突然の出来事の連続で状況が理解出来ないのか、獏のお面の男は立ち尽くしたまま子羊のお面の少女の見えなくなった背中を眺めていた。
「ちっ」
 思わず、舌打ちをした。
 あんな女のどこがいいんだか。
 藍のチョコ。チョコの見た目をした麻薬だ。「藍」という売春組織が、毎年期間限定で販売している。好きな相手に、このチョコを舐めさせながら自分を見させると、好きになってくれる。媚薬みたいな効果のある麻薬なのだ。
 それを、子羊のお面の少女は、獏のお面の男に使用した。彼からの偽物の愛を得る為に。偽物の愛を本物として受け止め、彼自身を自分の物にする為に。
「え……何ですか、催眠少女」
 何も気付いていない間抜けな獏のお面の男にムカつき、彼が左手に持つハート型の箱を地面に投げ付けた。
 ばらばらばらぁ、と中に入っていた10個程ある藍のチョコが泥濘んだ地面に沈んだ。
「な、何するんですか。せっかく貰ったのに」
 獏のお面の男は、残念そうに足元に散らばる泥塗れの藍のチョコを見ていた。
「うっさい、雑魚!」
 私は、口上まで上げられた獏のお面を感情に任せて被せ直した。
 今、ここだと思った。
 私が勝負に出るのは、今この瞬間だと。
 ちらっと、先程までいた路地裏に目をやった。そこにには、ラブホの料金表の明かりと生暖かい風を排出する室外機しかなかった。きっと、チャイナ服の少女も自分の戦いに出たんだ。
「あー、勿体ない……」
 藍のチョコを眺めながら、ぼそぼそと小言を呟く獏のお面の男。
「うっさいな、塵!」
 彼の胸元辺りへ右手を伸ばした。
「これやるから機嫌直せよ、カス!」
 獏のお面の男は、差し出された縦に薄い茶色の箱を見たまま、静止した。
「な、何か言えし、屑!」
 沈黙に耐え切れず、きつい言葉が自分の口から飛び出す。本当はもっと別のことを言うつもりだった。何回も、寝る前に頭の中でシュミレーションしたのに。やはり、彼を前にすると、上手く言葉が出てこない。
「何ですか、これ」
 獏のお面の男は、箱を両手で持つと、するすると私が頑張って結んだ赤色のリボンを簡単に解いた。
「チョコだし。それぐらい分かれよ、カス」
 本当に、本当にこの鈍感な男は腹が立つ。
 獏のお面の男は、獏のお面を口上までずらすと、箱から取り出した球体の茶色のチョコを口に入れた。
 全てが急展開で頭が追い付かなかった。
 え、早速食べるの。いきなり? 何も言わずに?
 もにゅもにゅ、とゆっくり咀嚼する獏のお面の男。ごきゅ、と上下した喉仏の動きで、彼がチョコを飲み込んだのが分かった。
「ん……美味しいです」
 演技でも、大袈裟でもなく、彼はまっすぐ私を見てそう言った。そう言ったんだ。美味しいって。美味しいって!
「そ、そりゃ、そうでしょ。私が作ったんだし。そりゃ美味いに決まってるでしょ、塵」
 自分でも分かるぐらい、動揺が隠し切れていなかった。静かにしてしまったら、糞みたいに早い心臓の活動音がバレてしまう気がして、意味のない言葉で音消しを試みる。
「また来年も食べたいです」
 そう言うと、獏のお面の男は子羊のお面の少女が走っていった方とは逆方向に歩き出した。
「……え」
 私がその場に立ち尽くしていると、私が渡したチョコをもしゃもしゃ食べながら獏のお面の男が振り返った。
「行きましょう、催眠少女。仕事の時間です」
 ちょっと待って。無理。可愛い。


【登場した湿気の街の住人】

・催眠少女
・肉饅乙女
・獏のお面の男
・子羊のお面の巨乳少女

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