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モノを生み出す人間の葛藤、誰もが通る交差点。

幼い頃から、読み書きが得意だった。
自慢と思われても構わない。
小学校の頃はクラスの誰よりも音読が上手く、写真に収めるように漢字や熟語を覚えることができた。読書感想文を書けば、当たり前のように賞をもらうような少女だった。

ところがある時期を境に、その輝かしさに暗雲が立ち込め始めた。
毎年いつも賞を獲っていた読書感想文に、わたしの作品が選ばれなくなった。そしてなりたて10代のわたしは、その理由を推測できていた。

欲が出たのだ。
こうやって書けば先生に気に入ってもらえるだろう、すごいと思ってもらえるだろう、子供らしい発想だと思われるだろう、という稚拙な打算が、むしろ彼らが求める青々しい無邪気さを文章から追い出したのだ。

そして、他者目線の介入。
自然体の心のままに書くことよりも、他人(先生)からどう受け取られるか?今年も賞を貰えるか?ということに焦点が移ったのだ。
欲が出たことも先生を気にしたことも、その時のわたしにはわかっていた。おそらく理由はきっと、そういうことなんだろうな、と子供心に勘づいていた。

事実、読書感想文と同じように賞を獲得してきていた絵も習字も書写も、同じ時期を境に、まったく同じ道を辿った。

絵と文字を書くことに関しては自ら能を封じ込め、わざと貶めた。
このことは、はっきりと記憶している。
その理由を要約すれば、周囲のクラスメイトにあまりにも依存されたからだ。彼女たちの依頼に奴隷のように付き合うくらいなら、いっそ下手になった方が楽だと思ったからだ。それと文字に関して言えば、いわゆる美しいとされる文字ではなく、みんなが使っている丸っこい文字に憧れたというのもある。「みんなと同じ」が安心をもたらし、周囲との調和を保つための生存方法になったことも一因だった。

しかし結局今のわたしは、幼い頃に何の苦もなくできたことに何やかやと関わっている。自分の好きなことを探るために幼少の頃の記憶を辿れというが、あれはやはり嘘ではないようだ。



そんな子供の頃の経験を顧みて、いま思うことがある。

あらゆる創作において肝となるのは、自分の創造性の発露において、いかに他者をそこに介入させないかということではないだろうか。

他人に気に入られようと、上手いと思われようとすることを手放し、ただ自分のやりたいように創造性を使うこと。これが、要なのではないだろうか。
自分の創作物を一番に気に入ってもらわなければならないのは自分であり、それは他者ではないのだ。自分が心からいいと惚れ込むほどのモノにこそ、他者を惹きつける何かが吹き込まれるのだ。ほとんどの芸術や文芸において、これはきっと、そうなのだと思う。

自分が満足していないものにいくら評価が集まったところで、高く売れたところで、モノを作る人間なら誰でも理解できるだろう、そんなことでは自分の心は満たされない。
モノを生み出す人間は、必ずこの葛藤に出遭う。
損得と評価を切り離した上で自分を出し切って作るモノと、世間を意識して作るモノとの隔たり。

世間はやれマーケティングだ、価値を生み出せと言うけれど、自分の望みがそこと交差しないのなら、そんなセオリーはただの鎖にしかならない。


創作を混乱させているのは、一体誰だ?



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