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タイの友人

 タイに友人がいる。もともとは三十六年前、夫が一人旅をしていて、バンコクのバスの中で知り合った。「地球の歩き方」で観光スポットを調べていたら、隣の席の青年が「私が案内しましょうか」と英語で話しかけてきたという。「地球の歩き方」には「街中で親切に話しかけてくる人には気をつけましょう。トラブルに巻き込まれる危険があります」と書いてあり、夫がそのページを見せると、青年は悲しそうな顔をした。その顔を見てかわいそうになった夫は青年に謝り、青年が勧めるまま、彼の家について行き、それから一カ月近くも彼の家に泊まり、いろんな所に遊びに連れていってもらったそうだ。

 その後、夫は会社員となり、カムトーンという名のその青年とは疎遠になったが、便利なメールの出現によって交流が再開した。間もなくカムトーンと友人グリットが初めて日本に遊びに来た。二〇〇四年のことだ。それが私と娘が彼らに会った最初で、娘は二歳だった。

 翌年夏、私たちはバンコクに行った。子どものいないカムトーンは娘を可愛がってくれ、ゾウを見に行ったり、ワニのショーに連れて行ってくれたりした。人見知りの娘も、言葉が通じずとも優しいカムトーンとは手をつないで歩いた。

 私は当時、母の卵管がんの再発が分かり、動揺していた。二年前にがんが見つかり、手術も抗がん剤治療もしたのに、こんなに早く再発するとは……。カムトーンはそれを知り、私に「未来が見える友人の僧侶がいるけど、話を聞きたいか?」と尋ねた。私がうなずくと、僧侶ピーカイの元へ連れて行ってくれた。夫も初めて来たときに、カムトーンの友達と一緒に会ったことがあるそうだ。

 ピーカイはバンコク市内の寺院の一画にある建物の中にいた。普通の住まいのようで、一階にはおばさん二人と猫がおり、薄暗い部屋の中でご飯を食べたり、テレビを見たりしていた。靴を脱いで上がり、おばさんに「サワディカー(こんにちは)」と挨拶をして階段を上ると、ピーカイは狭い部屋の半分を占めるぐらい大きな仏壇の横で、壁を背に胡坐座りをしていた。

 ピーカイはカムトーンから私の母の名前を聞き、しばらく目をつむってから目を開くと、「お母さんは良い人間なので、苦しまず、穏やかに天国に行ける」とタイ語で言った。それをカムトーンが英語で通訳するのだ。それから私の母が実家のどんな場所で寝ているか、寝室の様子を言い当てた。私のことについては、「志津は自分では気が付いていないけれど、シックス・センス(第六感)がある。その力を伸ばして困っている人を助けなさい」と言った。私が「シックス・センスを伸ばすにはどうしたらいいですか」と聞くと、ピーカイは「瞑想をしなさい」と答えた。

 私は子どものころも思春期も、占いに熱中したことはない。星座占いも血液型占いもタロット占いも、なんでもだ。小学生のとき、コックリさんが流行ったが、みんなで鉛筆に手を添えてコックリさんのお告げを待つときも、じれったくなって、実はほとんど私が鉛筆を動かしていた。

 でも、ピーカイの話を聞いたとき、私はほっとした。母が苦しんで死なないと聞き、安心した。母が「良い人間」であると言われたことには若干の疑念を覚えたが、良い、悪いで言われれば、母は正義感が強くて、人をだましたり、ずるいことをしたりはしなかったから、間違いではないだろう。

 帰国時、カムトーンは私の母のためにハーブの葉をたくさん私に持たせた。大小さまざまのタッパーや袋に小分けし、スーツケースに大量に詰め込んだ葉っぱが税関で引っかからなくて良かったと思う。帰国して、私は母に「これを煎じて飲むと体にいいんだって」と、大量のハーブの葉を渡したが、母はいぶかしげに見ただけで、結局、口にすることはなかった。

 母は自己中心的な性格だったからか、例えば私にいくら親しい人がいても、その人が母に挨拶したり直接会ったりしない限り、存在を認めないという面があった。だから、私は当時、ピーカイの話もカムトーンの話もそれ以上しなかった。それに、「治ります」という言葉ならまだしも、ピーカイが言ったのは「穏やかに死ねます」だったので、言わないのは正解だったと思う。

 それから十七年。この間も私たちがタイに行ったり、カムトーンたちが日本に来たりと交流は続いた。夏になって私たちが「今年はプーケットに行って、最後にバンコクに一泊するよ」などと予定を告げると、カムトーンたちも空路でやって来たりした。奥さんで大学教員のドゥン、風来坊のグリット、おしとやかなコイというのがいつものメンバー。カムトーンは建築家。仕事を自由に休めるわけではないのだろうが、なんだかみんないつも楽しそうだなと思ったものだ。

 彼らが日本に来るときは、カムトーンのお母さん、きょうだい、姪っ子、いとこ、僧侶である叔父さん、友人、その家族……とだんだん人数が増えていった。総勢十二人のこともあった。当時はまだビザが必要だったので、夫が書いた招聘状を持参してバンコクの日本大使館に申請に行ったら、大使館の係官に「ツアーでもないのに大丈夫ですか」と心配されたという。

 二〇一一年、東日本大震災直後の三月末にも彼らは来た。当初、今度は二十人で行くと言っていたので、家には到底入り切らない、どうしようと思っていたら大震災と福島第一原発事故が起き、「残念だが中止する」というメールが来た。ところが、人数は十二人に減ったものの、旅行は決行された。僧侶の叔父さんが「私たちは今行かなければいけない」と言ったのが決め手になったそうだ。

 信仰心あつい仏教徒である彼らの一番の旅の目的は巡礼だ。行く先々のお寺でお経を唱え、寄付をする。このときは東京に寄るのはやめて、京都や岐阜、富士山を六日間かけて巡った。どこもホテルは空いていて、外国人観光客は自分たちだけだったそうだ。

 帰国の日、成田空港近くで待ち合わせて昼ご飯を食べた。地震と原発事故以来、不安で重苦しい気持ちでいたので、わざわざ来てくれた彼らの励ましを、私は本当にありがたく思った。成田空港でドゥンは私の手を握り、「日本の人たちに幸運を」と言って涙を浮かべた。

 夫と私が最後にカムトーンに会ったのは、五年前に彼らが来日したときだ。その後、高校生になった娘が一人でバンコクに行き、カムトーンの家に泊まりに行ったりしたが、これは新型コロナウイルスが発生する前のこと。この夏、行動制限がようやくなくなり、私たちはタイを訪れた。

 五年ぶりに会ったカムトーンは、今年初めにコロナウイルスに罹患し、後遺症で今も体がだるいらしかった。五十八歳になり、あと二年でリタイアするか、悩んでいるところだと言っていた。グリットもドゥンもカムトーンのいとこも、ドゥンの妹も、私もリタイアして、リタイア組のほうが多くなっていた。コイはお母さんの介護中で、会えなかった。カムトーンのお母さんも、お姉さんが介護している。グリットも百歳近いお母さんを介護 していた。

 一方で、カムトーンの姪ウィーは二十六歳、私の娘は二十歳と大きくなった。特に、初めて会ったときは十三歳で英語が分からず、みんなの話を静かに聞いているだけだったウィーが、キビキビと動いて私たちの世話をしてくれ、頼もしい存在になっていた。

 私は今回もピーカイに会いたいと事前にカムトーンに伝えていた。娘が三年前に一人でタイに来たときは、私の代わりに会って話を聞いてもらったのだ。当時は私の父が死んで一年後。そして母が三度目の再発をして、最後の入院が始まった時期だった。母は二〇一二年に二度目の再発をして、手術と抗がん剤治療で乗り越えたものの、三度目はもう手術はできず、抗がん剤治療も期待はできない、と主治医から言われていた。

 一人で来た娘にピーカイはこう言ったという。

 「おじいさんは天国にいるが、アヤ(私の娘)のことがとても大事で、愛しているから、今も一緒にタイに来ている。アヤのおじいさんとおばあさんは互いに特別な存在として結びついている。おじいさんはおばあさんが来るのを待っている」

 私は娘からその話をLINEで聞き、病室に行って早速、母に「パパは今、アヤと一緒にタイに行ってるんだってよ」と伝えた。母は前回、カムトーンたちが日本に来たとき、私の家で会い、親しく話をしている。だから喜んでくれると思いきや、母は眉をひそめて言った。

 「まあ、いやだ。信じられない!」

 父がタイに行っているのが気に入らなかったようだった。

 「パパはママが来るのを待っているんだって」。この言葉も、母の死の恐怖を和らげ、母に感動してもらえるのではないかと思ったのだが、不機嫌そうな顔を見るとありえなさそうだったので、伝えるのは控えた。

 ピーカイはこのとき、私のことも娘に話してくれたという。「志津は人生のいろいろな経験を積んで、今は前より強い心を持っている」。私は自分では感じていなかったが、会社勤めのストレス、仕事と子育てとの両立、親の病気……としんどい生活を送ってきたので、そう言われてうれしかったのを覚えている。何よりも、通訳のカムトーンがうれしかったようで、このセリフを二回もLINEで送ってきてくれた。

 今回、私がピーカイに聞きたかったのは「二年前に死んだ母は今どうしていますか」だった。ピーカイは前と同じ寺院の一画にある建物の二階に、同じ風貌で座っていた。ここだけ時間が止まっているようだ。一階にいるおばさん二人も、寝そべっている猫も、なんだか十七年前と変わらないように見えた。以前と違うのは、何年か前から仏壇の反対側の壁に大画面のテレビが置かれ、ケーブルテレビが流れているようになったのと、仏壇に水晶玉が置かれ、ピーカイがそれを見つめるようになったことだけだった。

 ピーカイは、「母は今どうしていますか」との私の質問に、「お母さんは良い人間だったので天国にいる。お母さんとお父さんはソウルメイト。お父さんも長く病気で苦しんだけれど、今は二人とも一緒に天国にいるから、志津は心配しないように」と答えた。私は母が天国にいるというのは本当かなと思った。ピーカイは十七年前、母は苦しまず、穏やかに死ぬと言ったが、実際は全く穏やかではなかったので、そうした細かいことは水晶玉で見えないものなのかなとも思った。しかし、亡くなってしまえば、今、平和に天国にいることこそが大事なのだろうと考え直した。

 ピーカイはそれから、「志津のエンジェル(守護天使)は色が白く、背が低く、太った女性で、今もここにいる。志津が小さいときから知っている人」と言って、私の目の前の空間を見た。私はその姿形は大好きだった母方の祖母だなと思った。

 他にも聞きたいことはあるか聞かれた。前の晩、皮肉屋のグリットから「明日、志津はピーカイに会いに行くんだって? アヤの未来なら分かるけど、我々のを聞いても、もうしょうがないのでは」というLINEが来ていたが、「二年前にリタイアしたんですけど、これから私はどうしたらいいですか」とピーカイに尋ねた。すると、ピーカイは「志津はやりたいことが二つある」と言った。「それは何か?」と聞かれた私は少し考えて、「一つは書くことです」と答えた。でも、もう一つは何か分からない。それは自分で探さなければいけないらしい。

 また、これはいつも言われるのだが、おなかの病気に気をつけることと、志津とアヤは考えすぎるので、考えすぎないこと、よく食べて、よく寝るようにしなさい、との注意をもらった。六十歳を越えた私の夫の健康についても聞いた。夫の話になると、ピーカイは毎回、「何の問題もない」と言って笑う。夫はピーカイと初めて会った三十六年前から一定して「ピースフル」で、私と娘が「考えすぎ」なのと正反対なのだそうだ。ただ、老化のために筋肉が衰えていると言っていた。

 ちなみに、私にシックス・センスの能力があるという話は、最初に言われたとき以来、言われなくなった。私はあのとき、日本に帰ってすぐに「一日八分! 瞑想トレーニングで人生が変わる」という本を買い、瞑想を始めたのだが、本当に三日坊主で終わってしまったのだ。そうしているうちに能力が消えてしまったのだろう。なぜ真面目にやらなかったのか。かえすがえすも悔やまれる。

 父と母は天国にいる。

 志津はやりたいことが二つある。

 その教えをもらい、カムトーンはじめタイの友人と五年ぶりに再会し、今回の旅は終わった。十七年前は若かった人たちはみんな年を取り、離婚した人も、コロナ禍で仕事を失った人もいた。次回、またみんな元気で会えるのか、少し心配になった旅でもあった。コロナの後遺症か、カムトーンの声に前より張りがないのも気になった。帰国して、夫は「カムトーンがもしも死んじゃったら、相当悲しいだろうなあ」と言った。

 私は帰国してからずっと、自分のもう一つのやりたいこととは何なのか、考え続けている。でも、さっぱり分からない。

 高校時代の友達にその話をすると、彼女は「ピーカイさんって人はきっと、しーちゃん(私のこと)に何かやりたいっていうエネルギーが見えたんだよ。良かったじゃない」と言った。

 別の友人はこう言った。

 「その『もう一つのやりたいこと』は、志津さんが気づかないうちに何かをして、し終わって、ほっとしたときに、あー、このことだったのかなと思ったりするのじゃない?」

 そうかもしれない。この先、何か見つかるのかもしれない。少し楽しみになった。祖母がエンジェルとして私に付いているということも、母に伝えたくなった。

 母はまた、「まあ、いやだ」と言うだろうか。

(黒の会手帖第18号 2022・9)

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