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ケイコさんのこと

 北イタリアのアルプス山中にある町に、日本人の友人がかつて住んでいた。ケイコさんという名前で、私の娘と同い年のノリコちゃんという女の子もいた。けれど、この数年のうちに、二人は相次いで他界した。

 ケイコさんと知り合ったのは、私が勤めていた新聞社のデジタル版で、妊娠・出産から育休、職場復帰までの同時進行ルポを連載していた約二十年前だった。当時はまだブログとかSNSといったものは出現しておらず、会社は「読者との双方向」をうたってはいたが、読者とのやり取りはメールだった。とはいえ、同時進行ルポだったからか、結構たくさんの読者がお便りをくださった。

 ケイコさんもたびたび編集部にメールを送ってくれた。そのうち、私的なメールで他愛ない会話も交わすようになった。東京芸術大学の声楽科を出てイタリアで声楽の勉強をしていたところに現地の男性と出会って結婚したケイコさんは、男の子、そしてノリコちゃんを授かった。当時は夫婦で輸入雑貨店を営んでいたと思う。遅い出産で、私よりも七つ年上だった。育休からの職場復帰に際し、上司からすさまじいハラスメントを受けて苦しんでいた私を、ケイコさんは負けるなといつも励ました。

 日本に一時帰国したとき、私はケイコさんと二回会った。一度目は家族四人で日本に来たときで、私も夫と娘と一緒に会いに行った。それまでいつもメールで話していたので、初めて会った気がしなかった。イタリア人の巨漢の旦那さんは温厚そうだった。巻き毛のお兄ちゃんも可愛らしかった。三歳だったノリコちゃんは真ん丸なお顔で、お父さんに似て大きな子だった。ノリコちゃんと娘は、言葉は通じないけれど、二人でいつまでも同じ所をぐるぐると走り回って遊んでいた。

 その後もメールやフェイスブックで近況報告をし合っていたが、二度目に会ったのは七年後、ケイコさんが単身で一時帰国したときだった。それまでの間に、ケイコさんはイタリアで少しずつ歌を披露する機会を得て、レコーディングもすることになるなど張り切っていた。デモテープを送ってくれたこともあった。だが、都内で二人でランチをしたとき、彼女の様子はそれまでとずいぶん違っていた。実は、結婚後の早い時期から自分は夫から家庭内暴力(DV)を受けてきた。銃を使った暴力もあった。だから今は離婚に向けた裁判をしていると言うのだった。

 ケイコさんによると、銃を使った暴力事件が起きたあと、ケイコさんは二人の子どもたちと共にDV被害者のシェルターに保護された。しかし、週一回、子どもたちとの面会を許された夫が子どもたちを「洗脳」したので、お兄ちゃんが夫のもとに逃げ帰ってしまった。夫は「頭がおかしいのは彼女のほうで、子どもたちを捨てて家を出ていった。母親の資格がない」とケイコさんを攻撃した。流れが変わってしまったため、ノリコちゃんも家に戻り、今度はケイコさんが週一回、子どもたちと面会するという立場になった。そして今はお兄ちゃんだけでなく、ノリコちゃんも自分に反抗し、口をきかなくなってしまった……。

 正直言って、そのときのケイコさんの話は私の想像を超えるものだった。家庭内暴力について、ニュースや本では知っていたが、実際のところは分かっていなかったと思う。自分の身近に暴力が存在しなかったこともあり、そこまでの事件が起きるなんて、旦那さんの言い分も聞いてみたいと思ってしまった。話を聞くのが苦しかった。子どもたちから心を閉ざされ、異国で四面楚歌だと訴える彼女に、私はただ繰り返した。

 「ノリコちゃんはきっと今、パパとママの板挟みになっているんでしょう。でも自分は家にいるから、パパとお兄ちゃんを裏切らないようにしているんじゃないかな。お兄ちゃんは思春期だし、ノリコちゃんも十一歳で母親に意地悪な目を向け始める時期ということもあるんでしょう。だけど、ノリコちゃんは必ずいつか、ママのもとに戻ってきますよ。それは断言できるから、負けないで頑張って……」

 しかし、そうした言葉はケイコさんが特に望むものではなかったかもしれない。ランチが終わって別れたあと、なんとなく、彼女になぜかがっかりされたような気がしたことを覚えている。家庭内暴力について、私が本当は理解していないことを見透かされたのだろうか。あるいは、新聞社でイタリア語の通訳のアルバイトはないかと聞かれ、「ないと思う」と答えたから、落胆させたのだろうか。離婚後の自分の生活の糧について、私になにか相談したかったのかもしれない。

 その後、彼女の連絡は途絶えた。私も仕事と育児の両立に加えて、両親の闘病と介護で疲弊していったし、膝の靭帯を断裂して手術もしたりして、自分のことで精いっぱいで、連絡しなかった。フェイスブックではつながっていたが、いつの間にか彼女はアカウントを削除していた。

 「ご無沙汰しております。日本に帰国しました。またよろしくお願いします」というメッセージが届いたのは、五年後だった。離婚が成立して日本の名前に戻っていた。彼女が声楽家として出演する公演ポスターの画像が一緒に送られてきた。記された新しいフェイスブックを開くと、そのページはもうずいぶん前から始まっていたのに、自分が気づいていなかったことを知った。ケイコさんは三年も前に、すでに単身帰国していたのだった。

 ケイコさんは帰国と前後して乳がんが見つかり、日本で手術をしていた。実家とは折り合いが悪く、仕事もなく、困っていたが、フェイスブックのつながりで支援者が次第に増え、声楽家として活動するようになったらしい。
彼女の印象は、以前ととても異なっていた。もちろん、声楽家として髪をきれいに結い上げ、美しいドレスを着ているのだから、日常の姿と違うのは当然なのだが、顔も表情も違う人に見えた。一番違和感を覚えたのは「時空を超えた歌姫」という彼女のキャッチコピーだった。「波動」とか「宇宙」「見えない世界」「時空」「シンクロニシティ」といったスピリチュアルな単語が並んでいた。私もタイに友人を訪ねるときには未来の見える僧侶に占ってもらったりするので、全く興味がないわけではないが、彼女の場合はかなり「本格的」に見えて、なにかあったのかな、いかがわしいものに引っかかってはいないかなと心配になった。

 「よろしければいらしてください」と公演に誘われたが、同じころ、長くパーキンソン病を患った父を看取ったばかりのタイミングで行けなかったからか、それ以降、誘いは来なくなった。時を置かずして、私の母のがんが再発し、また闘病生活が始まった。私はケイコさんのフェイスブックを開くこともなくなっていった。

 ケイコさんに久しぶりに連絡を取ったのは、それから二年後の夏、私のメールにスパムが発生し、ケイコさんにも迷惑がかかったようで、「スパムよ、気をつけて!」というメッセージをもらったときだ。お礼と謝罪を送ったあと、久しぶりにフェイスブックを開いた私は目を疑った。ノリコちゃんがその年の春、父親の銃を使って自死したと書いてあったからである。ノリコちゃんはじきに十八歳だった。

 銃を使った家庭内暴力が起きたという話をケイコさんから初めて聞いたとき、私はそれ以上深入りしなかった。その後、時折、テレビの旅番組でイタリアが出てくると、いつか娘と一緒にイタリアに行ってノリコちゃんと再会しよう、などとのんきなことを考えていた。でも、ノリコちゃんの状況は、ずっと変わっていなかったのだ。

 離れて暮らしてからの七年間、ケイコさんがどんなに会いに行っても、ノリコちゃんはケイコさんと会うのを拒否したという。ノリコちゃんは農業高校に通い、厩で愛馬の世話をするのが好きな寡黙な少女に育った。将来の夢は自分の牧場を持つことだった。最後の二年間は「あんたはマンマじゃない。一生会いたくない」と言ってケイコさんとのコンタクトを絶った。ケイコさんが自分のCDを送っても、封が切られることはなかったという。

 私はあわてふためき、ケイコさんにお悔やみの言葉を送った。小さなノリコちゃんと私の娘アヤが二人で写っている写真も送った。ケイコさんは返事をくれた。

 「志津さん、ご連絡、そして懐かしい写真をありがとうございます。悲しいお知らせとなり恐縮です。この春、ノリコは自らの命を父親のピストルを使って絶ちました。魂となり、今は私とともにいます。光の国から喜んでお気持ちをいただいていると思います。アヤちゃん、ノリコの分もこの地球での体験を大いに楽しんで生きてください」

 その秋、ケイコさんは家庭内暴力の裁判で証言するため、イタリアに渡った(裁判はまだ続いていたのだ!)。ノリコちゃんの遺体は警察の捜査のため、半年以上が過ぎてもまだ埋葬されていなかった。遺体安置所にいるというだけで、ケイコさんはその場所を知らなかったが、渡伊中に偶然見つけることができた。ノリコちゃんはモーターのうなる冷蔵室で、棺に入っていたという。ケイコさんはノリコちゃんに「アヴェ・マリア」を歌った。そのとき、モーターの音が消えて、あたりが静かになった、とケイコさんは語った。

 帰国後、ケイコさんは乳がんとは違う場所に末期がんが見つかった。ずっと体調不良だったが、病院には行っていなかったようだ。治療はせず、年が明けて亡くなった。渡伊から四カ月後だった。

 二人が亡き今、ノリコちゃんのこれまでの寂しさ、悲しさについて考える。ノリコちゃんがお母さんと離れて恋しく思わなかったはずがない。日本に帰って、ケイコさんは自分の夢をがむしゃらに追い始めた。ノリコちゃんはお母さんを心の中で応援していただろう。でも、お母さんのCDの封を切らなかったことも、私は理解できる気がする。

 ケイコさんは、志津さん、そんなふうに感じるのは間違ってるよと言うかもしれない。「ノリコは地球での命をまっとうしたのよ」と。私は彼女が変わってしまったと感じたあと、こう推測していた。ケイコさんは過酷な思いをしたからスピリチュアルな世界に行ってしまったのだろうなと。

 でも、フェイスブックをさかのぼると、彼女がまだ結婚する前の三十歳ぐらいのとき、すでに「宇宙記憶図書館」といわれる「アカシックレコード」の自分のデータを読む体験をしたと書いてあった。私に心の内を明かさなかっただけで、もともと「見えない世界」の話が好きだったのだ。アカシックレコードはオカルト用語で、過去、現在、未来のすべての情報が記されているという「データベース」のことだ。私にはそうした素養がないから、ケイコさんは単に私を「切った」のだろう。

 ケイコさんはこう書いていた。

 「自分の心に嘘をつかずに生きることを決めてからは、人間関係も大きく変わっていきました」

 アカシックレコードには将来、ケイコさんが二人の子どもを授かることも書いてあったというが、ノリコちゃんが自ら死を選ぶことも書いてあったのだろうか。今となっては何も分からない。

 ケイコさんは生前、しばしば自分が歌う動画をフェイスブックにあげていたが、再生数が少ないとこぼしていた。私は普段、SNSの動画を見る習慣がないから、それも見ていなかった。でも最近、彼女がひとりで「アヴェ・マリア」を歌っている動画を見た。

 曇り空の下、戸外で開かれた小さなイベント会場で、彼女は青いドレスを着て歌っていた。観客はまばらだった。以前、デモテープを送ってもらったときは、実は私はその細い声があまり好みではなかったのだが、久しぶりに聞いた歌声は柔らかく、曇天から薄く差し込む光と溶け合っていた。ケイコさんは「スキ」が少ないと気にしていたのだから、「見ましたよ。良かったですよ」と一度でも伝えてあげればよかったと思う。今は「見えない世界」にいるケイコさんは、ノリコちゃんと一緒に私のこの気持ちを感じてくれているだろうか。

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