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【神様の囀り】第2章

僕 東京・9月某日 


 突然現れた彼女に対し、5畳半の部屋は明らかに戸惑いを見せた。
「男の子の部屋って、案外綺麗なんだね」 
 彼女が部屋を見回し始める。落ち着かない僕は意味もなく冷蔵庫を開け、中にあるものを数えた。卵3つ、ビール2本、濃くなりすぎた麦茶がピッチャー半分。
「何か、食べる?」
 と尋ねると、
「お腹すいた」
 間髪入れずに彼女は答えた。
 スーパーの袋から、キャベツと玉ねぎと半額の豚コマ肉を取り出す。20%オフシールの上から貼られた半額シールを指で剥がしながら、一体何をしているのだろう、と半ば途方に暮れる。
 僕の中の何かが彼女を呼び寄せた気も、彼女がずっと僕を探していたような気も、どちらも全くの勘違いのような気もした。保っていた僕の中の秩序もどきが、静かに乱されていくのを感じた。
 心を落ち着かせるために、無心でキャベツと豚コマと卵を炒め、塩コショウで味付けする。インスタント味噌汁にお湯を注ぎ、冷凍庫に眠っていたご飯を電子レンジで呼び覚ます。
 彼女はその間、本棚から抜き出した『人間失格』の表紙を眺めていた。
「あなた、大学生?」
 2人分の料理を盛り付ける食器を探している僕に、彼女は尋ねた。大きさも柄も異なるご飯茶碗を水で洗いながら、僕は頷く。
「文学青年なんだ?」
 それには答えず、湯気をたてるご飯をラップから茶碗に移し、小さなテーブルに運ぶ。
 本棚が持ち主の人格を表すというが、本当だろうか。少なくとも僕の本棚は、僕の人格を表してなどいない。太宰にもサリンジャーにも思い入れがない。ただそこに「存在」しているだけだ。
 そんな僕の胸中など知らず、彼女はいただきますと手を合わせた。美味そうにインスタント味噌汁をすする彼女の向かいで、僕は一体何をしているのだと再び途方に暮れる。部屋の中で見る彼女は、夜の下で見た時よりも一層幼く見えた。
「何故、君は僕に声をかけてきたの」
 僕の問いかけに、彼女はご飯茶碗から顔を上げた。口元にご飯粒が、2粒仲良く並んでいる。こういう場合に指摘するべきか否か、僕には判断ができない。
「じゃあ、何であなたは私をここに連れて来たの」
 答えの代わりに質問され、言葉に詰まった。ただでさえ一日に数える程しか言葉を発しないのに、今日は既に3日分は喋っている。声帯が驚いて、うまく機能してくれないのも無理はない。
 黙ったままの僕に対し、彼女は特に気に留める様子を見せなかった。些か油っぽい野菜炒めをおかずにもくもくとご飯を食べ、おかわりを所望した。もうストックがないと言うと、不満そうに頬を膨らませ、何かないの言いながらと勝手に冷蔵庫を開けた。
「ねえ、これ飲んでいい?」
 彼女が手にしていたのは、銀色の缶ビールだった。
「君、未成年じゃないの」
「未成年がビール飲んだら死ぬの?」
 僕が答える前に、プルトップを引こうとする。
「だめだよ、もし倒れたりしたらどうするの」
「あなたに介抱してもらう」
「いや、そういうことじゃなくて」
 翻弄されるという言葉の意味を、僕はこの瞬間、深く理解した。
「あなたも飲めば?一緒に飲もうよ」
 彼女は勝手にもう1本缶を取り出し、僕に差し出してくる。  
 以前安売りしていた時にまとめて買ったビール、正確には発泡酒を、見ず知らずのセーラー服の少女と飲む。あまりにも普段の日常からかけ離れた状況に、軽く目眩を覚えた。既に酔っている気分だ。
 彼女は不思議そうに僕の顔を覗き込み、額に缶ビールを押しつけてきた。その冷たさに、思わず顔をしかめる。長らく冷蔵庫の中で冷やされていたことを、僕に知らしめているようだった。
「乾杯しよ、乾杯」
 あまりに無邪気な笑顔に、僕は分かりやすくたじろぐ。
 彼女は何者なのだろう。僕はどうして、彼女を部屋に連れてきたのだろう、彼女は、僕は、彼女は――。
 気づくと僕は、ぷしゅ、と音と共にプルトップを引いていた。何かを考えるには、とっくに心のキャパシティをオーバーしていた。アルコールでも入れなければまともでいられないと思った。でも既に、大分調子が狂っていることも自覚していた。こういう時の逃げ道として酒があるというのは、法的に大人認定を受けて良かったと感じる数少ないことの一つだと思った。
 かん、と安っぽい音を立てて、僕と彼女は乾杯した。何に、と彼女は言わなかった。僕も何も言わなかった。彼女はまるで神聖なものを飲むように、ゆっくりと缶に口をつけ、目を閉じ、液体を飲み込んだ。そして僕の方を見、
「苦いね」
と微笑んだ。
 その顔を、僕は直視することができなかった。これ以上心を乱されるのが恐ろしかった。動揺を隠して缶を大きく傾けると、安っぽい麦の味が鼻孔をくぐり抜け、金色の液体が口から少し溢れた。
 狭い部屋には月明かりが満ちていた。消えかかった電灯の周りを、1匹の蚊が困り果てたように飛んでいた。部屋の隅に追いやられた洗濯物が、顔に不満そうなしわを寄せていた。

 昨日とも一昨日とも昨年とも違う一日は、まだ終わってくれそうになかった。


私 どこか・いつか 


 ママについての話はいっぱいあるはずなのに、いざ話そうとすると、言葉にならなくて困る。私、頭悪いのかな。私が空っぽなだけなのかな。それともママとの思い出なんて、本当はそんなに多くなかったのかな。
 
 でもママについて考えると、必ず最初に思い浮かぶことがあるの。それは私の、人生で最初の記憶。
 
 私はママの腕の中にいるの。音と匂いと、窓を伝う水の粒から、雨が降っていることが分かる。
 部屋の中でレコードが廻っている。懐かしいって言葉を知らなくても、懐かしいと感じる曲が流れてる。珈琲の匂いがする。空気がどしんと重みを含んでいる。でも決して不快ではなくて、寒い日に重い布団を被った時みたいに、ひどく心地良い。
 ママの腕の中は温かくて柔らかくて、私はうとうとしている。ママは何か言うんだけど、その意味が私には分からない。だからママの言葉は、その時の私にとっては、ただの音でしかなかった。
 でもね私にはその言葉が、意味をなさない代わりに、形に見えたんだ。まるっこくてきらきら光る、ビー玉みたいに見えた。ママが何か言う度に、それはころころ絨毯の上に転がるの。綺麗、って思った。よく分からないけど、なんて綺麗なんだろうって。
 
 今になって思うんだ。あの時のママの言葉って、もしかしたらとてつもなく大事なものだったんじゃないかって。特別な、忘れてはいけないものだった気がするの。絨毯の上に放っておいたままじゃ、だめだったのかもしれない。今となってはもう分からないけど。
 ママはこのこと、覚えていてくれたのかな。
 ママが忘れていたとしたら、この記憶は、もう私の中にしかないってことなんだね。私がいなくなったら、跡形もなく消えちゃうんだね。
 そう思うと、ちょっと悲しい。


眠れない夜のための詩を、そっとつくります。