土曜日の午後、『ザ・ホエール』を観た

『ザ・ホエール』を観た。思考がまとまらない。ベッドの上で見ていたのに、気づくと机に向かって台詞を書き綴っていた。まとまらない。まとまっている文章を期待している人は、ここから先は読まないほうがいい。作中にもあった、「エッセイなんかやめろ、正直に書け」というチャーリーのメッセージを受け取って、断片的に、思考を綴りたい。あとでまとめる、では意味がない。今書かなきゃ。評価されるとかしないとかじゃなく、感じたことを、純度高いまま、書き残さなきゃ。何のために?そうしなければいけない気がするから。どうして?それが私にとっての「救い」になりうるから。

主人公、チャーリー、男性。大学のオンライン教師。かつての恋人を失って以来、過食症になり、立ち上がれないほどの身体に。重い身体は心臓に負荷をかけ、彼の余命は幾ばくもない。しかし病院にはかたくなに行かない。彼の面倒を見ている、看護師の友人リザは、病院に行くよう促しつつも、彼の思いを一番に尊重する。

チャーリーの恋人は、教え子の男性だった。名前はアラン。妻子ある身にもかかわらず恋に落ちたチャーリーは、娘のエリーが8歳のとき、家を出てアランと一緒になる。しかしアランは、ニューライフという宗教組織に属しており、愛と、神の教えとの狭間でひどく苦しむ。食事を摂らなくなり、衰弱し、そして死んでしまう。明確な描写はないが、拒食症だったのだと思う。

チャーリーが過食症に陥るまでの描写はない。しかし、アランを拒食症で失った彼は、アランが食べられなかったぶんを取り戻すように、食べるようになったのではないだろうか。食べたいから、食べるのではない。救いたかった。救えなかった。その罪悪感か後悔か、いずれにせよ、正気ではいられなかった。過食しているときの彼の孤独が、心に突き刺さって血が出る。人は食べないと死ぬのに、食べすぎても死ぬ。肉体がある限り、人は食を人生から切り離すことができない。それは一種の絶望なのかもしれない。

チャーリーは自らの命が長くないことを知り、ずっと会っていなかった娘エリーと再会する。しかしエリーは世界中すべての人間を憎んでおり、学校も落第寸前だった。チャーリーにもひどく冷たく当たる。私を捨てて男と一緒になったくせに。今さら父親ずらするな。大嫌い。みんな大嫌い。彼女の孤独は、怒りというかたちで露出する。チャーリーはエリーに、学校の課題であるエッセイを見てあげるという。そして、自分が死んだあかつきには、全財産をあげる、とも。
チャーリーが抱えていた罪悪感は、アランに対してだけものではない。エリーのことも、妻メアリーのことも、ずっと心に影を落としていた。家族を捨ててしまった自分。恋に走ってしまった自分。そしてそのどちらも失ってしまった自分。神は救いなど授けてくれなかった。

物語にはもうひとりのキーマンとして、トーマスという若い男性が登場する。アランと同じ宗教組織の一員で、誰か一人を救うために、訪問で宣教師活動をしている。救いたい、救いたい、と頻繁に口にする彼もまた、救われたがっている。誰かを救うことで、自分も救われると思っている。たまたまチャーリーの発作を助けたことをきっかけに、家を訪れるようになる。彼は宗教上の神を信じており、今救われていない人々も、神を信じることで救われると信じている。

もうひとり、姿は見えないけれど印象的な人物がいる。ピザの宅配やであるダズ。いつもチャーリーの家にピザを届ける。チャーリーは動けないので、直接彼と顔を合わせることはない。しかしダズは、チャーリーのことを気にかけている。大丈夫ですか。本当に大丈夫ですか。チャーリーは答える。大丈夫だ。金は郵便受けの中にある。ダズは、扉の向こうにいるチャーリーを気遣いながらも、大丈夫と言われると、楽しんでくださいね、と言って去っていく。それ以上は踏み込めない。チャーリーの、孤独という檻を開けることができない。

救いとはなんだろうか。

彼には救いなど必要ない。
僕はあなたを救いたい。
病院に行きましょう。
誰か呼びますか?
愛を選んだから、神は見捨てた。

ぐるぐるぐるぐる、作品を見終わってからずっと考えている。人間はクソヤロウだ、とエリーは言う。人間は素晴らしい、とチャーリーは言う。

人は、誰かを救うことなどできない。
でも、人は誰かを気にせずにはいられない。

この台詞が、あまりにも深く刺さってしまって、静かに衝撃を受け、打ちのめされた。

誰かを救いたい、なんていうのは、自分が救われたいからだ。本当に救われました、といわれたとて、それは私の力ではない。人は自分しか救えない。救わない、という選択を取ることもできてしまう。救いを必要としないことを、救いにすることもできてしまう。

でも、ピザ屋のダズに助けてと言っていたら。病院に行っていたら。自分の行為をゆるすことができていたら。チャーリーはもうすこし生きていたかもしれない。でも、長く生きることが、救いだとも限らない。

この作品は、公開情報を見たときから、観なければと思っていた。絶対に観なければと思っていた。誰かと観たい気もした。でも、ひとりで観た。こわかった。何が?私たちは孤独であって、心のなかをすべてわかりあうことはできないと、わかってしまうことが。

全くまとまらない。でも、静かに、余韻のなかにいる。よく晴れた土曜日の午後、目を閉じて、私は自分の人生を回想する。

救い、については、ずっと考えていて、ずっと答えが出せない領域で。
救いたい、と思いながら書いている小説も、くるしくて何度も手が止まる。

私にとっての救いはなんだろうか、あなたにとっての救いはなんなのですか、教えてほしい、話がしたい、私たちは、たぶん、ずっと、救われたい。

エッセイは書けない、と思い、心の内にとどめておこうと思ったけど、エッセイと思わなければ、書けるのだとわかった。まとまっていない。編集もできていない。限りなく、思考そのままのたれ流しだ。でも、こういう「書く」があってもいい。心がそれを求めるのであれば。

この作品からなにを感じて明日からどう生きてなにをつくっていくかは、あなたも私も違うから。人の数だけ救いの概念がある。だとしたら、私は。 

一筆書きの日記、そう、日記とは元来こういうものだった。私にとって大切な作品だった。それだけでは言語化できない部分を羅列した。あなたの感想もよければ聞かせて。あなたの救いと私の救いを、照らし合わせて話がしたい。


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