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【神様の囀り】第9章

僕 東京・9月某日 


 彼女は今までの人生を、僕に話してくれた。僕が永遠に知らないはずだった、遠い北国の、ひとりの少女の物語。東京に埋もれ、誰にも気づかれることなく消えてしまうはずだった、彼女の生きた証。
 彼女は一度も泣かなかった。しかし僕には、話している間ずっと、彼女が泣き叫んでいるように見えた。
「書いてくれる?」
 話し終えた後、彼女はまっすぐ僕を見つめて言った。
「書くよ、必ず」
 僕は答えた。
 どうしてそんな約束ができたのかわからない。けれど、書かなければならないと思った。彼女の遺書を書くために、僕は今まで死に損なってきたのだとさえ思った。
 彼女は安心したように笑った。その顔でさえ、泣いているように見えて仕方なかった。12歳の彼女の面影を、僕は確かに見た。
「そろそろ寝ようか」
 僕は言った。時計を確認せずとも、そろそろ朝が世界を侵食し始めるのを感じていた。
「布団、敷くから。寝心地はそれほど良くないけど、勘弁してほしい」
「あなたは?」
「僕は適当に、そのへんで横になるよ」
「一緒に寝ようよ」
 布団を敷き始めていた僕は、思わず手を止めた。
「床は痛いでしょ?」
「そんなことないよ」
「嘘だあ」
 彼女は笑った。
 結局僕たちは、並んで布団に入った。
「ねぇ、ほんとに抱かなくていいの?」
 彼女のその言葉と共に、温かな息が僕の耳をくすぐった。振り返ればすぐそばに、彼女の顔がある。けれど僕は、振り向けなかった。
「キスくらい、してみる?」
 僕は答えなかった。彼女が本当にそれを望んでいるのか分からなかった。けれど、その相手は僕ではないということははっきり分かっていた。例え一瞬の快楽のためだとしても、今ここで彼女とキスをすることは、この空間の決定的な何かを損なうような気がした。
 その時初めて、僕はこの空間を壊したくないと望んでいるのだと気がついた。
 キスはしなかった。
 月光が薄くなり始めていた。彼女の微かな温もりが、肌を通じて身体の奥のほうに静かに沁みていくのを感じた。
 既に、時間は意味をなさなかった。
 永遠のような、幻のような、嘘みたいに長い夜が、ようやく終わろうとしていた。

 

夜行バス 午前2時15分 某サービスエリア


 トンネルを抜けても、そこはまだ夜であった。

 随分長く眠っていたような気がする。バスのエンジン音が聞こえない。重い瞼をゆっくり開けると、思いの外車内の灯りが眩しくて、再び目を閉じてしまう。もう一度目を開けて隣を見ると、青年の姿はなかった。
 どこかのサービスエリアに停まっているらしい。僕は身体を伸ばすため、バスの外に出ようと立ち上がった。少し腰が痛んだ。
 バスの外では初老の運転手が、煙草を吸っていた。深夜のサービスエリアにはひとも車も灯りも少なく、世界から隔離された場所にぽっかり浮いているようだった。
 ここはどこだろう。空を仰ぐと、無数の星が瞬いているのが見えた。星空はちゃんと、あるべき場所にある。東京から離れた場所に来たのだと実感した。
 周りを山に囲まれていることに気づく。不意に、幼い頃のことを思い出した。
 僕は高速道路が苦手だった。道路の脇に広がる鬱蒼とした木々の中には、民家もなければひとの気配もなくて、このどこかに取り残されたらと思うと、得体のしれない恐怖に襲われた。夜はきっと、どこまでも真っ暗な闇に沈む。きっと僕は、心細くて夜を越すことは出来ない。運転席に父親、助手席に母親がいることを確認し、彼らは僕を窓から放り捨てることなどしない、大丈夫、と必死に言い聞かせていた。
 随分遠くに来てしまったような気がする。もう後戻り出来ない場所まで。父親の声を、母親の輪郭を、鮮明に思い描けなくなっていることに、僕は気づく。
 もし今、バスに戻らずここに留まったら。僕はひとりで、夜を越せるだろうか。
「お客さん、時間です」
 先ほどの運転手が声をかけてくる。
「時間」
 僕は呟く。怪訝そうな顔で、彼は答える。
「出発の、です」
 僕は黙って、バスに乗り込む。どこへ向かう出発かも、わからないまま。


***


 彼女とは、それきり一度も会うことはなかった。
 電車の人身事故や飛び降り自殺のニュースを聞く度、はっとして耳を傾けた。けれど実名や名前が報道されることは少なく、されたとしてもそれが彼女のものだと知る術はなかった。彼女は世界のどこかで、ひとりぼっちで死んでしまったかもしれないし、生きているかもしれない。けれど恐らくもう、僕と彼女の人生は交わることはない。
 夢だったのかもしれない、と思うことがある。けれど、満員電車に揺られている時、徹夜で原稿を書いている時、サッポロラーメンを茹でている時、夏と夜が混ざり合った匂いの風を感じる時、不意にあの夜の情景が頭をよぎる。でもそれはひどく非現実的で、実際にあったことを思い出すというよりは、印象派の絵画を眺めているような、幻想的な夢に思いを馳せているような、そんな瞬間だ。
 けれど僕の部屋の引き出しには、彼女の「遺書」が静かに横たわっている。それを開くと、あの日の彼女の声が、細い三日月や安い缶チューハイの味と一緒に、ありありと浮かび上がってくる。紛れもなく、あの夜は存在した。僕と彼女は、間違いなくあの夜、一緒にいた。

『もし、あなたの本が売れたら、ああ、私の遺書はちゃんと生き続けているんだって、安心できると思う』
 彼女の言葉を思い出す。眠りにつく前で、僕は半ば朦朧とした頭で、それを聞いていた。
『だから、書いてね。あなたの本』
 耳元で感じる彼女の声は、確かに生きた人間の温度を持っていた。
『これから死ぬのに、死んでも生き続けたいって思うのって、何か変だね』
 夜は徐々に、汚れのない白に染まり始めていた。不完全な闇が、名残惜しそうに消えつつあった。死にたい人、生きたい人、そんなこと考えもしない人、人間の都合など無視して、何食わぬ顔で一日が始まろうとしていた。
『本当に、死ぬの』
 僕は呟いた。
『うん』
 彼女は答えた。
 意識が遠のいていく。何か言わなければ、と僕は思った。
『もし朝が来た時、天気が良かったら、死ぬのは先延ばしにしないか』 
 どうしてそんな陳腐なことが言えたのか、自分でも分からなかった。
 しばらく沈黙が続いた。彼女の返事を聞くまでは、深い微睡みの底に沈みきってはいけないと思った。重い瞼を必死に開けると、彼女は僕の方を見ていた。目が合った。
『分かった』
 その時彼女がどんな顔をしていたのか、知る前に僕の意識は途切れた。
 
 目を覚ました時、既にどこにも、彼女の姿はなかった。テーブルの上は綺麗に片付けられており、彼女がいた形跡はどこにもなかった。時計を見ると、正午に近かった。既に、「いつもの一日」のスタートには失敗していた。
 長い夢でも見ていたのだろうかと思った。けれど身体を起こした時、僕はポケットに何かが入っているのを感じた。はっとして取り出すと、それは夢で見たはずの彼女の「遺書」だった。そこに僕は、彼女の残り香を感じた。透明で冷たくて、鋭利で危うさを帯びた、真夜中みたいな匂い。
 シーツの上には、僕の頭に生えているものより随分長い髪の毛が一本、ぽつんと取り残されていた。
 
 空は曇りだった。
 
 僕はその日、初めて学校を休んだ。2年半の皆勤賞を手放したことは、僕の中で新聞一面を飾るほど大きな出来事だった。一日中、狭い部屋の真ん中で、彼女が残した一文を目で追い、昨日の彼女の話を、忘れないように思い返していた。部屋に散らばっているはずの、見えない彼女の欠片を拾い集めるように。
 お腹が空いて冷蔵庫を開けると、長らく奥に眠っていたはずの缶ビールが2本、忽然となくなっていた。冷凍庫を開くと、米のストックが一つもなくなっていた。買い物に行こうと財布を探して中身を見ると、野口が一人もいなくなっていた。
 いつもの道の街灯は切れていた。立ち止まって空を見上げると、昨日より少し太った三日月が浮かんでいた。野良猫が僕の足下に寄ってきて、にゃんと鳴いた。僕はツナ缶を開けてしゃがみ込み、彼の目の前に置いた。彼はお礼も言わず、カロリーの高い食事を始めた。

 ひとひとひと、ひとの群れ、ひとひとひと、ひとりきり。
 
 彼女が残したフレーズを口にする。野良猫は一瞬不思議そうに顔を上げたが、すぐに食事に戻っていった。
 それは不思議な響きだった。けれど遠い昔――僕がこの世に生まれてくるよりもっと昔、僕が僕でなかった頃――に、聞いたことがあるような気がした。
 彼女もひとりごちたのだろうか。この街よりも遙か北、寒くて雪深い、青森の街で。あるいは、人と人工の光で溢れた、ひとりきりの東京で。
 僕は野良猫の頭を一撫でし、立ち上がった。そして家に帰り、昨日目を覚ましたばかりのノートと、引き出しの中で冷たくなっていた原稿用紙の束を取り出した。真っ白のまま長らく眠っていたそれらは、待ちくたびれました、とでも言いたげに、大きく伸びをしたように見えた。
 翌日から僕は、何の変哲もない灰色の日常に戻った。決まった時間に起き、ひとりで講義を受け、買い物をし、7時前には家に帰った。けれど、眠る前までの時間に、小説を書くようになった。一日、原稿用紙2、3枚くらい。右隣に濃い目の珈琲、左隣に彼女の「遺書」を置いて。
 それから大学を卒業するまで、僕は「昨日と同じ一日」を繰り返すことを貫き通した。太宰治とメリメの比較研究で卒論を書き、まともに就職活動をしないまま卒業した。アルバイトを掛け持ちする傍ら、細々と小説を書き続けた。
 書き上げた小説が、ある出版社の賞に引っかかったのは2年前のことだ。僕には「作家」という肩書きがつき、「編集者」と呼ばれる人物がつくようになった。執筆のための取材出張や書店でのサイン会を行うことが多くなり、東京から地方に行くことも多くなった。3つ掛け持ちしていたアルバイトは、一つに減らした。そのアルバイト先には最近中国人が増え、レジが最新のものに変えられた。
「先生の小説の登場人物に、モデルはいるんですか」
 よく、そう聞かれることがある。
 その問いに、僕は答えない。言う必要がないことは言わないと決めているからだ。社会に出て職業を与えられてからは、大学生だった頃の何倍も、一日に発する言葉は増えた。しかし必要以上のことを、必要以上のひとに話さないという姿勢は、あの頃と変わらない。
 「小説家」という肩書きを背負うようになって、思ったことがある。やはりこの世界は、売れない小説家が書いた小説なのではないかと。この世界を創ったのは、全知全能の神などではなく、締め切りに追われ、毎晩必要以上にウイスキーを飲みながら拙い文章を書き続けることでしか生きていけない、ひとりぼっちの作家なのではないか。だからあちこち辻褄が合わないし、登場人物全員が幸せにはならないし、溢れ出す悲しみや苦しみを制御することが出来ない。

 今日僕は、自分の小説の中で、何の罪もない少女を殺した。
 
 夜はそんな僕を断罪することなく、窓の向こうで流れていく。

眠れない夜のための詩を、そっとつくります。