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【神様の囀り】第4章

僕 東京・9月某日 

「あなたの話が聞きたいな」
 期間限定果汁アップを主張する缶チューハイを開けながら、彼女は言った。
 机の上には、まるで大学生が宅飲みをするかのごとく酒やつまみが並んでいた。慣れないものを置かれ居心地悪そうにしている机に、少しの仲間意識を抱いた。
「どうして聞きたいの」
「だめ?」
「話すようなことはないよ」
「そんなことないでしょ。あなたは私とは違う生活をしているんだから、私に話すことなんていくらでもあるはずだし、本だって沢山読むんでしょ」
 彼女はそう言って本棚に目をやる。まだ半分しか手をつけていない『太宰治全集』の文字が、僕を睨み返してくる。
「あれはただあそこに在るだけだから」
「わ、何あれ『少女地獄』だって、やだー、怖いタイトル」
 彼女は本棚から本を抜き出し、物珍しそうにぱらぱら捲り始める。その姿は少女そのもので、読んでいる本と相まって、ひどく危うく見える。もしこの部屋に隠しカメラが設置されているなら、監視人に僕は間違いなく通報されるだろう。辺りを注意深く見回してみたが、ぱっと見怪しいものは見当たらない。こんなボロアパートを監視する物好きなどいない。
 ポテチの袋を大きく開こうとして、勢いで数枚飛び散らしてしまう。パーティー開けの不慣れさを隠すように、ポテチを拾いながら口を開く。
「この状況で身の上話をするのだとしたら、それは僕ではなくて君だと思う、けど」
 彼女はそこで初めて本から顔を上げ、テーブルのポテチを長い指でつまんで口に入れた。静かな部屋に、彼女の咀嚼音だけが響く。
「私がそれを話したら、あなたは私に何をしてくれるの?」
 夜より深い黒色の瞳は潤み、頬は赤みを帯び、髪は少し乱れていた。彼女はその危うい空気を纏ったまま、ぐっと僕の方に顔を近づけてきた。そして、ゆっくりゆっくりと、先程ポテチをつまんだ指とは別の指を、僕の頬に伸ばしてきた。爪には何も塗られていなかった。触れた指先は、冬のガラス窓のように冷たかった。
 
 誘っているのだ。そう気づくのに、恐らく平均よりも時間がかかった。彼女に見つめられた時点で、大半の男性は欲情するはずだ。そう思わせるだけの色と温度を、彼女は持っていた。そしてそれを惜しみ無くさらけ出していた。顔を背けたくなるほど。
 この状況に置かれた男性が取るべきスタンダードな行動は一つ――彼女を押し倒し、唇を塞ぎ、彼女の衣服を脱がしにかかる――だろう。経験のない僕にも、何となくそれがわかった。それが、犯罪になるか否かは問わないこととして。彼女の本心も、深く探らないこととして。

 一時の快楽が消してくれる幾つもの感情があることを、僕は知っている。

 頬に触れている彼女の手を掴んだ。それは思いの外小さく、さして大きくもない僕の手の中にも、すっぽりと収まってしまった。僕はそれをゆっくりと、頬から離した。
 彼女は怪訝そうに僕を見、
「抱かないの?」
と言った。
 僕は黙っていた。必死に理性を保とうとしているわけでも、性欲を抑えているわけでもなかった。しかし、彼女に魅力を感じていないわけでもなかった。
 ――この状況において、「大半の男性」にあてはまらない存在が取るべき行動は、一体何なのか。
「やっぱり、そうなんだ」
 彼女は言う。僕ははっとして顔を上げる。
 もしかして、彼女は気づいているのだろうか?気づいていた、のだろうか?いつから?始めから?だから、僕を?
「言わないでくれ」
 僕が言うのと、彼女が言うのは同時だった。

「あなた、女の子なんだね」

 普段からもっと言葉を発しておくべきだったと、僕は初めて後悔した。
 


私 どこか・いつか 


 
 
 夏の夜の名無しの林道。
 
 パパのことを思い出そうとすると、思い出すのはいつもこの記憶。いつのことだったっけな。多分、私が小学校低学年くらいの頃のこと。
 私はパパにおんぶされている。辺りは真っ暗で、道の両側には木が沢山並んでいて、時々ざわわわ、と不気味な音を立てる。私は何か大きな化け物が隠れているんじゃないかって、どきどきしてた。
 でもね、不思議と怖くはなかった。台風の夜みたいな気持ちだった。世界は得体の知れない大きな危険で覆われているのに、私だけは、暖かいリビングに守られているような。どきどきはするけれど、感じているのは恐怖よりも興奮が強かった。
 パパはくたびれた緑色のキャップを被っていた。白地に紺色ボーダー柄のださいTシャツには、じっとり汗が染みていた。パパの歩き方は音をつけるなら、「のそのそ」で、一歩歩く度に視界が上下にゆっくり揺れた。パパのうなじに顔を近づけると、短い毛がちくちく当たってくすぐったかった。汗と、草と、夜の匂いがした。
 上を見ると、頭がおかしくなりそうなくらい沢山の星があった。星が降ってきているのか、私の目の中に星が降っているのか、どちらか分からなくなって混乱した。本当はどちらでもなくて、星は私の手の届かないくらい遠くにただ存在しているだけだなんて、その時は思えなかった。
 どうしてパパと私は、あんな道を歩いていたんだっけ。ママはどこにいたんだっけ。忘れるべきではなかった気がするのに、忘れてしまったから分からない。どうしてだろう。
 ゆっくりと、星空を切り裂いていく光が見えた。あ、流れ星。私はパパに言った。ねえ、パパ。パパは何をお願いしたの?

「」

 その時パパが何て答えたのか、私には分からない。忘れてしまったのか、そもそも、幼い頃聞いていたママの言葉と同じように、理解が出来なかったのか――でもその時のパパの言葉は、あの時と違って、形にはならなかった。
 私は何をお願いしたんだっけ。
 そうだね、多分……そうだ。その時の私は、あまりにもパパの背中が居心地良くて、何なら少し眠くて、降りたくなかったんだろうね。だから、

 このまま永遠にどこにも辿り着きませんように。

 そう願った。
 星への願い事は大抵叶わないってことを、まだ私は知らなかったんだね。


 

眠れない夜のための詩を、そっとつくります。