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再会の意味

8月に入ってから今日まで夏休みモード全開で、朝はちょっとゆっくり起きて、懐かしい人に会ってビールを飲み、ホットヨガにせっせと通い、躊躇なく昼寝する日々を過ごしていた。インプットもあまりせず、本は買っているけれど、なにもかも全然読み進められていない。
エンタメはDesney+でクドカンの「季節のない街」をちびちびと見て、日曜劇場「VIVANT」を後追いするくらい。「君たちはどう生きるか」もまだ観てない。

中学と高校の内輪的な同窓会が2つあり、隣町の恩師にも3年ぶりくらいに会った。懐かしい人たちに会う度に、地元に戻って3年の間に自分ってけっこう変わったんだなと思った。「前に会ったときはなんかぼーっとしてたけど、ちょっとシャッキリしたよね」とも言われた。
おそらく、当時は会社に所属していて、なんとなく守られているような感じがどこかにあったのかもしれない。あるいは、日々に疲れていてやっとやっと生きていたところもあった。自分じゃなくて会社の人間として存在することにすごく疲れていたというか。惰性の毎日に飽き飽きしていたのに、打開しようという気力もなかった。



若いときはなんであんなに人の目を気にしていたんだろう。誰も自分のことなどさほど気にしていないのに、自意識過剰だったなとつくづく思う。
この連休に、ある専門職についている人たちのZoom上での会合に同席させてもらった。年長者が、その専門職の若手の人たちにいまどんなことに夢中になっているのか、悩んでいること、今後の目標などについて話を聞くような回だったのだけど、そのときの若手のみなさんのお話を聞いていると、「悩んでる暇なんてない」「できないことはない」みたいな万能感があって、とにかくまぶしかった。何でもやってみればいいのに、やりもせずにやろうかどうしようかと悩んで悩んでこじらせて、疲れはてていたわたしのあの頃って、いったいなんだったんだろう。そんな不毛なことはもうしたくない。やっと気付いた。

きっと、いまからでも遅くない。気力と体力が落ちていなければ。落ちていく一方のものではあるけれど、減ってもできることはあるし、減っていくからこそいままでと違うやり方を模索していけばいいはず。

隣町の師匠の言葉を反芻している。いい年齢になり、成長しなさいと言われることもなくなったいま、成長のために何をしているかと問われて答えに窮した。本を積ん読するのが精一杯で、勉強らしい勉強なんてほとんどしていないことにはっとした。3年前と同じ仕事(内容・質ともに)をしていないか。レギュラー仕事に安住していないか。自分に負荷をかけることから逃げていないか。自由を満喫することだけでいいのか。それと引き換えに手放しているものはないか。
体を作る努力をしていることだけは褒められた。

ときどき叱ってもらうことって大事だと思った。師匠がここのところ何度か夢に出てきていたのと(夢の中でも説教された)、ちょうど連絡できる要素が揃ったこともあって久々に連絡し、再会したのだった。

この一連の懐かしい出会いには、はたしてどういう意味があるのかを考えている。人と関わるなかでやっと、自分の形がぼんやり浮き出る。なんでもかんでも独りよがりになっていないかとふりかえる時間だったかもしれない。

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