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"隣の芝生の青さ"は何をもたらすか


日々をなんとなく過ごすと、目標がすり替わってしまうことが良くある。

脳がそのようにして目標をすり替えてしまうと、身体もそのように動いてしまうのだ。

高い壁より近い壁を登ろうとする。
ついつい登りやすい山を選択してしまう。

高い山を登り切った後にはきっと綺麗で広大な“芝生”が広がっているはずなのに。

上手くいかないことが立て続けに続くと、そればかりに捉われてしまうことがしばしば起こり得る。

今の問題は"タスク"
生活する中で日々のタスクを設定するのだが、なかなかのタスクを未消化のまま一日を終えてしまうことだってある。

僕が設定しているタスクは自分の目標に対して合理的なタスク設定になっているのか。

はたまた、それは外からやってきた無目的なタスクなのか。

それらを自分のなかで区別し整理することが出来ず、消化出来なくなり、そのような自分にネガティヴな思いを抱くようになる。

そうすると、いつしかタスクを消化すること自体が目的にすり替わる。

自分の“登山”を手助けをしてくれるようなタスクを見失っていないか。

もちろん、どんな物事も捉え方次第では自分を前に進めてくれる力になる。

ただ、人生は有限であるという考えに基づくと、努力のベクトルをどの方向に向けるのかって結構大事なのではないかなと。

自分の直感に従いアクションを起こす。

タスクを設定し、そのタスクと向き合い続けるうちに、また新たな発見を用意してくれる。

用意してくれるというよりも、あるタイミングで新たな人と出会い、その人達が新たな発見をプレゼントしてくれる感覚。

そもそも、そのタスクは今の自分にとって本当に必要なタスクなのか?

そのタスクは自らが用意したものであるにも関わらず、その存在が自分の首を絞めていないか。

そんな時ほど、自分のやりたいことは何だったのかと立ち返る。そうすると、少しだけ気持ちが楽になる。

課題から逃げているだけなのか。
継続という高い壁から逃げているだけなのか…

隣の芝生が青く見えることが時折ある。

全ての事柄に対して“自分目線”というレンズをかけてしまってはいないか。その全てを自分の都合のいいように解釈し、行動しない自分を肯定しようとしていないか?

登りたい山はそんな所にあるのか?
その山は登る必要があるのか?
“ハイキング”と“登山”の違いを理解しているか?

隣の芝生がそんなに青いのか。

隣の芝生を眺めてネガティヴになってしまっているくらいなら、その芝生を眺める必要はない。

SNSでは素敵な芝生がたくさんあり、その芝生を覗くこともできれば、コミュニケーションをとらせてもらえることもできる。

そんな時、自分はどういったマインドなのか。

自分自身を最もコントロールしなくてはいけない。

『自分はどんな芝生を張りたいのか』

『そこで何をやりたいのか』


僕は“新たな芝生”の上で、長崎中の夢を持ったアスリートが集い、怪我することなく夢を追い続けれる"手助け"をしたいと思っている。

その“芝生”にはどんなアスリート達が、どんな顔をして立っているのか。どんなことをやっているのかをイメージする。

このような“芝生”を張る為に、心と身体と脳を動かし続けるしかないし、到底一人では張ることは出来ない。

日々地道にアクションし、一つずつ種をまき、時折""をもらうことによって、僕が夢抱くような『新たな芝生』を張ることが出来る可能性が高まる。

いつ叶うかなんてわからない。
誰も『後少しだよ』なんて教えてはくれない。

今、この瞬間に結果が出ていなかったとしても、その夢に向かってアクションし続ける過程すらも楽しんで今日も過ごそう。



What do you want to do.


何をしたいんだ?



フィジカルコーチ/石田將

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