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インクルーシブ教育を日本型学校教育システムに組み込むことが不可能な二つの理由

インクルーシブ教育を推進する勧告が国連から日本政府に対して出されるなど、近年インクルーシブ教育をいかに導入するかが問題になりつつあります。

この問題に関して、日本の学校教育制度とのマッチングの悪さを考察したいと思います。

インクルーシブ教育とは

そもそも「インクルーシブ教育」という言葉に馴染の無い方も多いと思います。

インクルーシブ教育(インクルーシブきょういく、英語: Inclusive Education)とは、人間の多様性の尊重等を強化し、障害者が精神的および身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能にするという目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組み。インクルージョン教育と呼ばれることもある。しかし、特別支援学校・学級を「分離教育」である悪とし、健常児と同じ教室で受けさせることこそが「政治的に正しい」と絶対視する意見への反対もある。

Wikipedia インクルーシブ教育

簡単に言えば、障害のある児童、生徒をこれまでのように特別支援学校に分離して通常級の生徒との接点のない中で教育を行うのではなく、障害の有無を認識した上である程度同じ環境の中で教育を行おう、というものです。

もちろん、設備や教育内容によっては全てを同じ場所で行うことは不可能なです。

そのため可能な限り同じ場所を共有し、障害を持つ人が同じ社会の構成員であることの認識を強めることを目標とする、ということになります。

こうした考えはアメリカやカナダから発達しました。

多文化共生や人権意識の高まりの中で発生した考え方であり、この基本的なコンセプト自体は時代の流れに沿うもので、否定しようのないものです。

日本においてもこれまで以上に多様性を認める社会を作る以上、こうした変化は受け入れていく必要があるでしょう。

ところが、この考えを日本の学校教育に導入するためには二つのハードルがあります。

①学級人数の問題と教員不足

インクルーシブ教育の導入目的には、先述の障害を持つ人との共生という目的だけではなく、学校現場で増加している発達障害の問題があります。

発達障害と診断される児童、生徒は増加傾向にあります。

2006年に発達障害と診断された子供は7000人、ところが2019年にはその数は7万人を超える状況となっています。

全体では6%、平均すると一学級に2人以上が存在する計算になります。

この原因は様々ですが、最も大きな要因は「診断を受けた」ということです。

おそらくはこれまでもそうした発達障害を抱えた生徒は存在していました。ところが、周囲は「ちょっと変わった子」ぐらいの認識しかしていませんでした。

そうした人は学校生活ではもちろんですが、社会に出てからも苦労をするケースはあったでしょう。

しかし、学校も社会も自分の意思や感情とは関係なく作業や行動を強いる強制性の強い時代においてはそれほど顕在化しなかったのでしょう。

教員の権威が強く、体罰で強制的に抑え込むことも可能だった時代においては、発達障害を抱えた人であっても無理やりのその場で表面上は同じ行動をさせることが可能だったのです。

しかし現在の学級は40人にも関わらず、身体や発達障害、それ以外にも多様な発達段階の子供を一度に40人もフォローしながら、一人の教員が授業や支援を行うことは可能でしょうか。

35人学級の実施も小学校から徐々にスタートしているだけで、中高ではいまだ目途がたっていません。

加えて教員不足が問題になり、専任の担任が不在のまま新学期を迎える学校もあると聞きます。

この状況でインクルーシブ教育を導入することができるとは到底言えないでしょう。

②学習指導要領と「履修主義、年齢主義」

さらにそこの問題を難しくするのが「学習指導要領」の縛りです。

現行の学習指導要領はあくまでも履修主義を取っています。

ある学年で学ぶべきものを文科省が設定し、そのカリキュラムを履修して進級が認められる制度です。

ところが、生徒それぞれの発達段階は多種多様です。

算数は苦手で抽象思考をできない、言語能力は高いなどそれぞれの生徒には異なった特徴が存在します。そこに身体、知的障害や発達障害を含めればロールモデルを設定することなど不可能です。

インクルーシブ教育はこれらの生徒に個別に、それぞれに必要な教育や支援を行おうという考え方です。

つまり、そもそもの制度設計の方向性が根本から異なるということになります。

こうしたインクルーシブ教育を実現するためには、最低でも修得主義、課程主義の考え方をかなり大きく取り入れる必要があるでしょう。

教育制度の「大手術」が必要

つまるところ、現状の教育システムにインクルーシブ的な要素を組み込むことは現実的に不可能であり、それを行うには教育制度の基本設計から根本的に見直す「大手術」が必要だ、と言えます。

これまでもこうした変更に対して、日本の教育制度は教員という使い捨てのコマを駆使して対応してきた歴史があります。

しかし、公務員であるというステータスや安定性でさえもそのコマとなる人材を集められない時代が来ました。

もはや、現場に丸投げし無理やりつじつまを合わせるやり方は不可能でしょう。

それとも不可能を承知で、現状のまま無理やりインクルーシブ的な教育を組み込み、公教育崩壊の道をたどるのでしょうか。

後者ではないことを願うばかりです。

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