見出し画像

エリート層の社会下位層に対する解像度の低さ


X(旧Twitter)での書き込み

先日、X(旧Twitter)でなるほどと感じる書き込みを見かけました。

私も経験上、この意見になるほどと感じました。今回はこのことに関して私自身の経験的なものを含めて書いていきたいと思います。

アッパー層の社会認識

以前の記事でも書いたように、私自身はそれほど裕福な家庭、地域に生まれておらず、地方都市の農村部で育ちました。

周囲には豪農と言えるようなお金持ちもいましたし、生活的にはかなり厳しいであろう同級生なども存在しました。

ところが、運よく地方の中ではかなりの進学校として知られる高校に入学したため、そのギャップに驚いただけでなく、高校の同級生たちの社会認識に違和感を抱きました。

それこそ、先のツイートにあったように彼らの多くは社会的に貧しい人の存在は認識はしていますが、それはごく一部の限られた人たちであり自分たちとは縁遠い存在という感覚です。

私の母校の高校は公立であり、選別的に高所得者層が集まる学校ではありません。しかし、地域での難易度や幼少期からの受験対策をする生徒が多いため、必然的に地方におけるアッパー層の家庭の子供がほとんどとなっていました。

地方都市でさえそうであれば、都心部における私立小学校出身者などはなおさらであることは言うまでもないでしょう。

知識と体験の差異

先のツイートに対し「本やニュースで学ぶことで理解している」という返信がありました。

たしかにその言は間違いではありません。

しかし、実際にはエリートクラスやアッパー層の子供たちの多くはその言に従って改善するまでもなく、すでにきちんと知識として理解しています。

彼らは知識としては知っているが、実際に地域住民や友人、親族としてそうした人たちと接触をした経験が極端に少なく、社会の例外的な認識をしがちである、ということなのです。

解像度の低さ

これは官僚などのエリート層にも見られる傾向です。彼らは貧しい人たちの状況を理解していますし、そのために救済策を構築して政策立案しています。

事実日本はそうした低所得者層への福祉政策が不足しているようなことはありません。(もちろん十分ではないですし、改善の余地は十分にあるでしょうが、少なくとも他国と比較して悲惨な状況であるとは決して言えません)

ただ、決定的に問題なのは、そうした低所得者層の多くが救済策へのアクセスや認知ができておらず、彼らがそのアクセスの仕方自体を理解できない、理解する意欲や必要性への認識が低い、ということでしょう。

そして体験が不足するエリートたちはその問題に気づきにくい、ということが問題を複雑化しています。

エリート達は救済策は準備しているのに利用しないのは本人の自己責任だ、努力不足だ、という結論へ到達するということです。

こうしたエリート層の解像度の低さが政策段階や実効性に関して問題となる中、実際には経済、教育格差は広がりつつあり、状況はますます悪化しているのが日本の問題なのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?