見出し画像

【題未定】厄年を終えた中年だからこそ、迷信やまじないを多少は受け入れる心のゆとりを持ち得るかもしれない【エッセイ】

 厄年という言葉をここ数年耳にする機会が増えた。男性の数え年で42歳とその前後1年を指す言葉だ。寺社仏閣に行くとその手の早見表が大看板にしてあったりする。かくいう私も今年で満43歳を迎える中年で、昨年後厄を終えたばかりだ。

 職業的な特性か、あるいは元の性格からか、占いやまじない、怪しげな宗教儀式の類が昔から苦手だ。朝のニュース番組(もはやバラエティか)にある星座占いやラッキーカラー、アイテムについて休憩時間に話をしている人を見ると正気の沙汰なのか疑問に思うし、真面目に信じているような人とのその手の会話は返答に悩むものの一つだ。

 当然ながら厄年や厄祓いという話も決して好きではない。科学的に「私」がその年に不幸なことが起こるという必然性はないし、紙のシャラシャラと発音が明瞭ではないお祈りでその不幸から回避できるとは到底思えない、というよりも絶対に不可能だからだ。

 しかし、ここ最近、そうしたまじないや迷信、言い伝えの類に関して少しだけ寛容になった。もちろんそうしたものを頭から信じるようになったとか、特定の宗派に帰依したというわけではない。ただそれを信じる人の思考が妄信や思い込みではなく、ある程度の妥当性のあるものなのでは、という視野に立つことができるようになった、ということだ。

 例えば血液型性格診断などは良い例だ。正直な話、あの内容自体は生物学的に考えればナンセンスな話で、血液の凝集反応における分類を人格と結びつけるのはありえない内容だ。しかし一方で、日本における血液型性格診断はあまりにも有名になったがゆえに、血液型性格診断そのものがある種の拘束性を生んでいることは否定できない。A型が几帳面、B型はマイペースといったステレオタイプな情報は誰しもが知っているほどに有名なため、自分自身が無意識にその傾向に沿った行動をとりがちになったり、他者のそうした傾向を過敏に観測したりする可能性はある。その結果、科学的には根拠が無かった血液型性格診断が疑似的に成立しやすい状況を生む可能性は存在するということになる。つまり因果性は無いが、相関性が見られるという可能性もあるわけだ。
(日本のように一定程度、閉じられた社会においてという限定的な環境においてのみではあるが)

 厄年という概念なども同様の側面に加えて、統計的な意味合いがあるだろう。いわゆる「ミドルエイジクライシス(中年の危機)」と呼ばれる肉体的にも、社会的にも不安定になりやすい時期において、「厄年」なる分類で不安を煽られることで精神的な被害を生む可能性は否定できない。また、年齢的に三大疾病などのリスクが統計的には上昇する時期であり、肥満が増加する時期でもあり因果関係を結びつけやすい条件はそろっている。実際には相関性しかなくとも、そこに不安を感じて因果を見出す人は少なくないのかもしれない。この不安に対してまじない的な祈祷が直接的、科学的な改善を促す効果は無いにしても、自身への自己暗示や言い聞かせ的な効果を持ち得る人もいるのではないだろうか。

 繰り返しになるが、私自身はこうした占いや迷信、まじないの類は信じていないし、そうした話題は好むところではない。当然ながら厄払いになけなしの金をつぎ込むような真似を自分がすることは一切無い。しかし以前ならばそうしたものを好む人を一笑に付していたものが、そうした人をより冷静に分析しその思考過程や理由を考えるだけの視野が持てるようになったのだ。

 常日頃、家人から冗談を解さない、人間の幅が狭いと指摘を受ける私ではあるが、不惑を迎え、厄年を過ぎ、その程度の余裕はもち得るようになったという自己評価を最近はしている。これも思い込みの類でないことを祈るとしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?