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国立大の学費値上げを主張する上流階級の無神経さは、慶應義塾への反感を招くだけの愚行


国公私立大学の学費格差問題

国公立大学と私立大学の学費には大きな格差が存在します。年間の学費で言えば、国公立大学の場合は学部を問わず約60万円、私立大学の場合は文系学部で100万円強、理系学部や医療系の場合150万円程度、医学部の場合700万円程度(均等割りすると)と言われており、同じ学問を学ぶに際してのコストは大きく異なっています。

とはいえ、この50年で国公立大学の学費は値上がりが続いており、月1000円であった1970年からすると比べるべくもない額となっていますが、私立大学と比較すればいまだに半額以下程度であり、学費格差が国公立大学の人気を下支えしている要因の一つであることは間違いありません。

慶應義塾学長、伊藤氏の提言

そうした状況において、国公立大学の学費を上げるべきだという意見を提言したのが慶應義塾大学学長の伊藤公平氏です。

氏は国立大学の学費を値上げすることで公平な競争環境が保たれるとともに、大学の収入増になるという主張を文科省の特別部会で発言したようです。

この発言の意図自体は理解はできます。運営費の削減に苦しむ国立大学は多く、また費用が高いために進学先の選択段階でバイアスがかかってしまうことも事実です。しかしおそらくこの発言は氏の真意やその内容以上に多くの人の反感を生み、却って分断を生む火種となる可能性があります。

上流階級の無神経さが透けて見える発言

国私の学費格差に関しての問題は現実に存在しているのは事実です。しかし、その解決に関しては国立側を上げるのではなく、あくまでも私立側を下げる方向で行うべきだと私は考えています。

この主張に対し、教育は受益者負担の原則で考えれば本人が負担すべきである、という反論を浴びせる方が少なからず存在します。仮に能力、志高くとも学資の無い人がいた場合は奨学金を充実させるべきである、という主張も重ねるでしょう。

慶應義塾の伊藤学長もその仲間の一人です。

「イット!」の取材に対し、慶応義塾の伊藤塾長は、「基本的には奨学金を充実させて、広く必要な方に(奨学金を)届けることを前提にする一方で、学費を払える方には負担をお願いするシステムを提案したものです」と話した。

この発言は教育は受益者負担が原則であり、払える余裕のある人間は払うべきだ、しかしそうでない場合は奨学金で貧しい人を救えばよい、という視点です。こうした視点の源泉にあるのは恵まれている、学資の負担が家計を圧迫しないという思考です。

事実、伊藤学長も幼稚舎からエスカレーターで慶應義塾大学、その後UCバークレーで修士、博士を取得する超上流階級の人です。悪気はないにしても、飢えた民衆に「パンが無いならケーキを食べればよい」の意に近しい発言は反発を生むのが必至でしょう。
(マリー・アントワネットの言葉として知られていますが、史実ではないようです)

教育は社会資本であり、受益者は社会全体

私はこのnoteでも何度も繰り返し主張していますが、教育は社会資本であると考えています。それは詰まるところ、教育による個人の人的資産価値の向上は社会へ還元されるのが必然であり、教育の受益者は社会全体であるという考え方です。

勿論、学費が個人負担となっている現状において奨学金制度の拡充はなされるべきでありますが、理想を言えば現行の高等教育無償化の対象者の拡大、最終的には大学の完全無償化が社会全体の利益に繋がると考えています。

そうした観点で見た時、今回の伊藤学長の発言は無神経で分断を生むだけのアジテーションに見えて仕方がないのです。


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