自動車泥棒(中編)

 青山は手島の指定に基づいて博多駅で乗車すると、車両を渡り歩いて手島と会った。手島は彼に気づくと、椅子から立ち上がった。隣に空席がないことからの気遣いだった。椅子前にあった腰までの高さのあるスーツケースを転がし、二人はドアの前に移動した。
 青山は手島を伴い、自分の車が駐車される駅を降り、近くにある刺身などを出す居酒屋へ向かった。店内には一様に次縹の色をした、八畳ほどの生け簀があった。その中には自分らが調理されるまでを過ごしている魚が泳いでいた。昭和末期からあったであろうこの店ができた当初、こんな仕様は目新しかったろうが、今となっては誰も驚かないし、興味も引かない。こんな設備、都会に行けばいくつも見ることができるのだから。
 二人は酒を呑み、魚を食らいながら話をしていた。
 ある瞬間、酔った手島が神妙そうに自分の苦悩を打明けた。
 青山は偽善からそれを聞き流し、何を話されたのかすぐに忘れてしまい、そんな自分に気づいて狼狽した。偽善とはつまり、人に対してその場限りの優しさを見せてやることだった。
 大して回らぬ頭脳で彼は、偽善を敢えて見せる心こそ、自分の固執を変えるのに必要なものだという仮説を実証しようとしていたのだった。
 手島は肉を喪い、もはや骨だけになった鯖を、力なさげに見ていた。青山はこんなに人から言葉を奪いとり、不安そのものを表す光景を未だ知らなかった。
 言葉をかけることができずに、青山は生け簀へ目を逸らした。濾過された海水がポンプで注ぎ込まれていた。水面まで顔を近づけた一匹のカワハギが、その身をひるがえして奥深くへと潜っていく拍子に幼い音を立てて水を飛ばしていた。すると板前が一五〇センチほどの柄の網を持って現れて、そのカワハギをすくい取ってしまった。錯乱するかに思われたカワハギは、網の形を下へと膨らましているだけで、滴る水も穏やかだった。ちょっとした後で、板前が無言で出刃包丁でカワハギの鱗をすっかり削り落とし、腹を切り開いた。カワハギは絶命し、痙攣するだけだった。包丁がこの一連に及ぶときの凄惨ながらに風情ある音が、客の声が邪魔して青山には届かなかった。

 青山は代行業者を呼んで帰ることにした。二人の乗る車がいざ青山が住むマンションへ差し掛かった際に、青山は手島をコンビニにいざなった。手島は酩酊から抜けかけた頃合いで冷静さを取り戻しつつあり、言葉を発さずにただ頷いた。運転手は会話から察して、手に取った無線機で同僚にその旨伝えた。
「運転はどうするんだい」
「ここからお前の家までそう距離もないんだろう、なら大丈夫さ」
 もっと狡猾に、とまで言いかけて手島は口をつぐんだ。
 信号機が青を示した。方向指示器を作動させて、車が駐車場に入ると、エンジンが一定の振動を保ちながら音を小さくしていった。
 出し抜けに手島が、後部座席から身を乗り出して料金を尋ねて、即座に支払うのを青山は傍観していた。大して短い時間でもないのに、青山は一切の抗いを見せることができなかった。止めてはいけないと直感が働いたのだ。
 颯爽と入店して、青山はピースを二箱買って出ると、封を開けて二本取り出し、うちの一本を手島に与えた。手島は胸のポケットからぬるぬるとした光沢を放つ藍色のzippoライターで火を起こし、二本ともに火を点けた。
 青山は煙草を喫みながら同じように喫む手島をただただ凝視していた。そうしながら、特殊な動機もないのに奇妙な凝視だと青山は思った。手島はそれを意に介さないで、先程まで二人のいた遠くの駅の方角を眺めていた。
 辺鄙なこの町には街灯がない。あるのは星の輝きとコンビニのある種の気持ち悪さを含んだ明かりだけである。ずっと向こうにある街の光は活力を象徴しているはずなのに、どうも死んでいるように見える。

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