村上春樹の『街とその不確かな壁』は、「シンエヴァ」である-「ぼく」と「私」をめぐる冒険

※加筆修正 2023/06/07

今回、村上春樹の新作である『街とその不確かな壁』を読んで、友人の読書会に参加したときに話した陰謀論とそのあと考えたことを書いておく。

読書会の中で私は、この小説は、庵野秀明の「シンエヴァ」と構造的に似ていると語った。どういうことか。

大きく二つの点でそう言える。

まず一つに、運命的な「きみ」のことが忘れられない中年男性が、自閉症的な子どもによって、救われる話であるということである。つまり、「私」は碇ゲンドウであり、「M**くん」が、シンジくんであり、「きみ」は、碇ユイである。

シンエヴァとこの小説の重要な違いとしては、シンエヴァは、シンジくん(子ども)がエヴァから脱出し、現実世界へと至ったのに対して、村上春樹のこの小説は、M**くんが壁の中の世界に残って、「私」が現実に戻ったことである。

この違いは何を意味しているのか。これは十分に考慮する必要がある問題である。読書会の中では、M**くんの存在が、かなり物語的に都合の良い記号的な存在として描かれていることが話題になっていた。私もそう思う。あまりにも唐突に少年はでてきて、しかも何故か急に饒舌に語り出して、主人公を救ってしまう。(すずめの戸締まりのサダイジンを想起した)

これは、言ってしまえば、中年男性がその責任を新入社員に無理やり押し付けるようなものである。パワハラだ。

だが、一方で、村上春樹の主人公はよく発達障害的であるとも言われている。

明示的に今回自閉症としてこの少年を描いたことには非常に意味があるという話も出ていた。それは非常に重要な指摘だと思う。

思えば、『1Q84』のふかえりもディスクレシアであったし、他の作品でもかなりこうした人物が出てくる。村上春樹自身も読者とのやりとりでそういう傾向があるということを語ったこともある。

なぜ村上春樹が発達障害の人物を物語らざるをえないのかという問いは私には重要に思える。ここには、村上春樹の根本に関わる謎が隠されている。そんな気がする。

次にもう一つ構造的な共通点がある。運命的な「きみ」と永遠の世界(フィクション)で生きるではなく、偶然であったひとりの女性と共に、現実で生きることを選ぶ話であるということだ。

綾波やアスカではなく、マリを選んだシンジ。忘れられない「きみ」ではなく、コーヒーショップの女性を選んだ私。

だが、これらの二つの話はよくある現実に帰れという話なのだろうか?

この物語の前半は、新海誠の『秒速』のような話が延々と続くが、これはもしかしたら、40過ぎたおっさんの記憶が美化されているだけなのかもしれないと私は読んでいた。(もしかしたら、実は彼女も存在しておらず脳内彼女なのかもしれない)

最終的には、理想化された美しい過去(フィクション)であるきみとともに、壁の中で生きるのではなく、現実のこの女性と共に生きるという選択をこの主人公はするように見えるわけだが、これは果たしてそう単純に解釈しても良いものだろうか。私は、村上春樹の真意は違うのではないかと思っている。

なぜならば、コーヒーショップの彼女とこのような会話がなされる。

「「彼の語る物語の中では、現実と非現実とが、生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」と彼女は言った。「まるで日常的な当たり前の出来事みたいに」
「そういうのをマジック・リアリズムと多くの人は呼んでいる」と私は言った。
「そうね。でも思うんだけど、そういう物語のあり方は批評的な基準では、マジック・リアリズムみたいになるかもしれないけど、ガルシア゠マルケスさん自身にとってはごく普通のリアリズムだったんじゃないかしら。彼の住んでいた世界では、現実と非現実はごく日常的に混在していたし、そのような情景を見えるがままに書いていただけじゃないのかな」
私は彼女の隣のスツールに腰を下ろし、言った。「つまり彼の住む世界にあっては、リアルと非リアルは基本的に隣り合って等価に存在していたし、ガルシア゠マルケスはただそれを率直に記録しただけだ、と」
「ええ、おそらくそういうことじゃないかしら。そして彼の小説のそんなところが私は好きなの」

村上春樹『街とその不確かな壁』

この小説の人称は読んでいて非常に変である。(特に第二部の終わりあたり)

一人称だが、視点が入れ替わる。分裂しつつ、統合する一人称。新しい一人称の形を村上春樹が、実験していたのかもしれない。

村上春樹は、川上未映子との対談でかつてこのように語っていた。

『グレート・ギャツビー』は、基本的には一人称小説なんですよ。チャンドラーも一人称小説だし、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も一人称小説。僕はそういう一人称小説がもともと大好きなんだけど、そうした小説の書き手はみんな、あるところでそれを切り捨てているわけ。まあチャンドラーだけは別ですが、なにせあれはシリーズものだから、途中からスタイルを変えられない。だんだん三人称に移っていかざるを得ないというのは、物語が進化して、複合化・重層化していくことの宿命みたいなものです。ただ僕自身は、正直言って、そのうちに一人称小説をまた書いてみよう、書きたいと思っています。そろそろ新しい一人称の可能性みたいなのを試してみたいですね。

『みみずくは黄昏に飛び立つ-川上未映子訊く/村上春樹語る-』

村上春樹は、この対談の中でも、小説における
リズム」の重要性を繰り返し強調しているが、ここから考えると、「ぼく」/「私」という一人称の選択は、一般的な読者が読むような私的/公的や幼さ/成熟といった受ける印象だけでなく、音素、テンポのレベルで、全体の基調、作品との距離、トーンを変えてしまうほどに、重要な要素であるのだ。

村上春樹は、『騎士団長殺し』の中で、新たな「私」の実験を行っていた。とすると、ではこの作品ではどういう一人称の実験をしようとしていたのだろう?

この小説は、クライマックスを見ればわかるように、「ぼく」と「わたし」が同化する物語である。

「ぼく」は「きみ」とフィクションの世界で永遠に生き続ける。と同時に、この現実では、この「わたし」は、コーヒーショップ女性とともに生き続ける。

だが、一体化した「ぼく」=「わたし」において、どちらが影とか本体だとかそういう二項対立は存在しない。

ハードボイルドワンダーランド(現実)と世界の終わり(フィクション)という二者択一ではなく、どちらも等価に生きること。

村上春樹はそうした物語を書いたのではないか?そういったことを意図して、ガルシア・マルケスが引用されていたのではないか?

だとすると、蛇足のように見える短い第三部が違った読みができると私は思うのだ。

シンエヴァも、同じように、単純な現実に帰れではなく、フィクションと現実を同じように愛することが一つのテーマだったように思うのである。「ぼく」=シンジくんと「私」=ゲンドウの和解。それはフィクションと現実の和解でもある。

蛇足かもしれないが、書籍化されていない文學界に掲載された「街と、その不確かな壁」から何故村上春樹が「、」を除いたのか。そこにはきっと大きな意味がある。

なんだか、題名とだいぶ違う話をしてしまった気がするが、まだ色々整理中なので、とりあえずこの辺で終わることにする。また思いついたら加筆するかもしれない。

なお、私が主催する読書会でもこの本を扱う予定なので、参加したい方がいれば下記のURLからどうぞ。

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