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【連載小説】アウトボールを追いかけて 第1話 「フェンスを越えて」 #1

「うわっ、まただ」
真正面から迫ってくる砂ぼこりをもろに被りそうになり、すぐさま袖で顔を覆った。
息を止めている耳元で風音が低いうなり声をあげてかすめていく。
目蓋を閉じるのが一瞬遅かったようで、左目に違和感を感じた。
目をしょぼつかせたまま尻をついて頭の埃を払う。

「ちっ、せっかく…」
家を出る前にドライヤーをかけてきた髪はすでに逆立っていた。
再び砂ぼこりが色の剥げた滑り台や錆び臭い鉄棒の間を抜けて襲ってくる。風を背にするように向きを変えると、ピッチャーマウンド辺りで巻き上がった埃が小さな渦を作っていた。

 そんな、風のちょっかいを座ったままいくつかやり過ごす。ブランコがあおられているのだろう、ガチャガチャと耳障りな金属音が聴こえる。
後ろの方からは何かがぶつかる低い音がした。

 その日は4月にしては珍しく午前中から20度を越え、生暖かい南風が子供達に何かをけしかけるように吹き荒れていた。
昨夜見た天気予報では、いい天気だと言っていたはずである。
「ヤン坊マー坊の野郎、嘘つきやがったな」
もっとも、青空にはかわりはないのだが、ちょっとばかり朝から気まぐれな天候だった。
早朝降った通り雨が残していった水溜まりは、風が吹くたびに細かい波紋を浮かび上がらせていた。

 ようやく立ち上がって辺りを窺うと、木目の浮かんだブランコの座板がくねくねとツイスト踊りのように揺れ、電柱の前ではポリバケツが嘲笑うように口を大きく開けて転がっていた。
「ったくよー」文句を吐きながら大げさに砂ぼこりを振り払う。
早くキャッチボールを始めたいのだが、何度もグラウンド整備を途中で邪魔され、苛立ってくる。

 風が吹いてきた方角に目をやると、丘の上の横浜根岸米軍住宅が何事もなかったかのように横たわっていた。
ショットガンハウスの壁は晴れ渡った日差しの反射で白く輝き、庭に広がる黄緑の芝は柔らかい毛並みの絨毯のように見える。
余裕綽々しゃくしゃくなその姿がちょっと鼻につく。
片や周辺の民家では、くすんだ色合いの板壁と鈍色のトタン屋根とが重々しく並び、その対比が一層際だって見えた。

 再び風が吹き抜け、小坂晃二こさかあきじはシャツの胸元に鼻から下を埋めたまま横を向いた。
誰かが捨てたガムの銀紙が舞い上がり、キラッと光って白線上を一塁方向に飛んでいく。そして周りを囲まれ行き場を失った風は、広場の古い建物に吸い込まれるように消えていった。

錆びた有刺鉄線で囲われた米軍施設に接した小さな広場。
晃二達は三方に分かれ、デコボコになった地面の薄れた白線を蝋石でなぞっていた。

 ホームベースの内側を塗りつぶしている横顔は真剣そのもので、なんだか一人黙々と地面とにらめっこでもしているかのように見える。
薄い眉を寄せ、二重の目は一点を見つめたまま表情を変えず、ガムを噛んでいる小さく細い顎だけがわずかに動いていた。
赤いチェック柄のシャツの袖にはピーナツバターがこびり付き、その先の華奢な手首には絆創膏が2つ貼られている。
膝を抱えるようにしゃがんだ、半ズボンの後ろ、ベルトとシャツの間に差し込んだ黄色い野球帽が、風が吹くと尻尾のように揺れた。

 突然、輪郭の濃い影がホームベースに覆いかぶさり、晃二は手の動きを止めた。
手元のカリカリという音が止むと、その分風の音が増したように感じる。

「晃二さぁ。ゆうべ考えたんだけどな」
一塁ベースから戻ってきたウメッチが屈んで顔を近づけてきた。
「なんだよ。またくだらねぇアイデアでも浮かんだのかよ」
晃二は立て膝をつき、目の前のコールテン地のズボンを見ながら言う。
そこには白い指の跡が三本、先日見たスパイ手帳の暗号みたいについていた。

「そんなこと言うなよ、今度のはすごいって」
「今度のは、今度のはって、いつもじゃねぇかよ」
「……じゃあいいよ」
ウメッチは舌打ちして、落書きでも消すかのように地面の砂を苛立たしげに払った。
その瞬間、彼の身体からフッと整髪料の匂いがした。どうやらまた父親のバイタリスを拝借してつけているらしい。休日になるとウメッチは少し長めの髪を後ろに撫でつけ、野球をするにも格好つけて来た。

フフッ。
晃二は小さく笑って、ひょろ長い身体を縮こませ、ウンコ座りしているウメッチを横目でしげしげと眺めた。

 いつものように黒のボーリングシャツの胸ポケットからは、鼈甲もどきの櫛が顔を覗かせている。少し丸い鼻とくっきりした二重まぶたが、どこかインド人っぽい。父親が基地でミリタリーポリスをしているので、どこか外国の血が混ざっているんじゃないか、とすら思ったことがある。
そのせいなのか、キザにふるまう努力の甲斐あってなのか分からないが、クラスの女子の人気はそこそこあった。背は高いくせに猫背なので、いつも覗き込むように話しかけ、耳元でくだらない冗談を言う。

「なにこそこそ話してんや」
三塁とホームの中間あたりで荒ケンがニヤニヤしている。
晃二は立ち上がり、わざとらしく大きく伸びをした。

「ウメッチがさぁ。すんげぇアイデア思いついたんだとさ」
大げさにそう言って、小石を投げてふてくされているウメッチを顎で指す。
荒ケンは少し眉を上げ、やれやれといった表情でゆっくり近づいてきた。
ウメッチは小さく微笑み、すっくと立ち上がるとズボンの裾をパンパン叩いた。

彼の口元は早く話をしたくてウズウズしているように見えた。
それに反して荒ケンの歩き方は緩慢で、余裕すら感じる。

 いつものメンバーである晃二、ウメッチこと梅田弘、それに荒木健、通称荒ケンの三人はホームベースを囲む形でしゃがんだ。
「……で、なんや。そのアイデアって」
そう言って晃二の方を不審そうな面もちで一瞥した。

 荒ケンの喋り方は関西弁が若干混じる。そのため、ぶっきらぼうできつく聞こえるのは毎度のことだが、今の言葉の裏には戸惑いが見え隠れしていた。
きっとこのままやり過ごして練習を始めるか、それともちゃんと最後まで話を聞いてやるか迷っているのだろう。
ウメッチがわざとらしく咳払いすると、荒ケンは額に皺をよせて深く息を吐いた。

 荒ケンは体格がそこそこの割には喧嘩が強かった。
スポーツ刈りだった髪はボサボサに伸び、狭い額の中央にある横長の傷跡と小さな目が特徴だったので、晃二が描く似顔絵ではいつも猿になっていた。ジーパン以外の姿を見たことがなく、それもすり切れてボロボロだった。
爪を噛むのが癖で、どの爪先もジーパンのようにささくれている。
クラスの番長的存在で、仁義や任侠の世界が好きだったが、気性は見た目ほど荒くなく、普段はどちらかというと寡黙な方である。

「んー。前から考えてたんだけどさぁ」
スニーカーの親指つけ根あたりのすり切れた穴をいじりながらウメッチは話し出した。
そのRマークのついたスニーカーは、晃二と同じ有名メーカーの、もちろんバッタもんである。
「金儲けしねぇか」
「なに?」「かねもーけ?」
単刀直入というか、いきなりそう言われた二人は顔をしかめて声高に言った。

「あのさぁ。ナイスアイデアだと思うんだよな」
「……」
 下を向いて含み笑いしだした二人を見て、ウメッチは一旦話を止めた。
そして白く塗りつぶされたホームベースの端を貧乏揺すりのように蝋石でなぞり始めた。
晃二は金儲けという言葉の意味をなぞるように考えてみたが、いまいちピンとこなかった。
テレビドラマや映画の世界がぼやけたイメージとして浮かぶのがせいぜいである。
ましてやウメッチの口から出ると、犯罪やら横領の臭いがプンプンしてくる。

 また風が吹き抜ける。凹凸が激しく、傾斜になったコンクリートすれすれに、小さな渦が一瞬姿を見せたかと思ったらすぐに消えた。
何か考えているのか、話し出すタイミングをうかがっているのか、三人とも斜め下を向いて黙ってしまった。

 どこか近くの枝で鳥のさえずりが聞こえる。
辺りにはのんびりとした静けさが朝霧のように垂れこめていた。
日曜の午前中という、正しい曜日の正しい時間帯の在り方である。

 その静寂の向こうから乾いたエンジン音が近づいて来た。
3人は示し合わせたように振り返り、脇道を通り抜けていくホンダのスーパーカブを目で追った。
知り合いでもある近所の新聞屋のおっちゃんに手を振って見送った後、荒ケンが何気なさそうに口を開いた。「そんで?」

 晃二が視線を戻すと、仕方ないだろとでも言いたげに荒ケンが苦笑いしていた。
その一言を待っていたウメッチは笑顔を取り戻し、続きを話し出した。

「この建物によくアウトボールが飛び込むじゃん。
それって結構たまっていると思うんだ。
それをさぁ、忍び込んで取ってきてみんなに売るんだよ」
一旦、二人の顔を覗き込むように見る。

「新しいL球なら百円、古いのは五十円。
あとB球とかC球だったら…六十円かな」
二人は顔を見合わせてまた黙ってしまった。

 晃二達がよく集まって遊ぶこの広場は町内会が管理し、少しばかりの遊具と狭い空き地ではあったが、ちびっ子広場と呼ばれて子供たちに親しまれていた。
以前は駐車場として利用されていたが、下町であるが故、車を持っている家庭が少なく、現在は子供たちの遊び場として開放されていた。
しかし、元々は米軍に接収された古い建物の裏にポッカリ残った空き地のようなところだったため、野球をするにはあまり適していなかった。
一塁と二塁のすぐ後ろに建物が位置する横長な空間のため、外野はレフトしかなく、グランドと呼べるほどの代物ではなかった。
もちろん通常のプレイやルールも通用しない。

現在の1等観覧席  Photo:Jordy Meow


そこで編みだしたのが変則ルールである。
ライト側にフライが飛んだ場合、壁に跳ね返って直接取ればアウト、取れなければシングルヒットと決めたのだ。
その際、ランナーは球の反射の仕方を見て判断するのだが、飛び出しすぎると帰塁できずにゲッツーとなってしまう。
反射球を捕られて慌ててランナーが戻る姿が面白く、みんなよく態とライトを狙って打っていた。

だが、もしボールが窓から軍の建物に入ってしまったら、たとえそれがどんなにいいアタリだったとしてもアウトとなるのだった。
この入ったが最後、取りにいけないボールのことを、みんなアウトボールと呼んでいたのである。

確かに、これまでに晃二達が入れたアウトボールだけでも十個近くはあったし、他の子供達が入れた分まで数えたら二、三十個にはなるだろう。
ウメッチの言う値段で売れば二千円くらいにはなるかもしれなかった。
今まで諦めていたアウトボールが取り戻せて、しかも金儲けまでできるとなると悪い話じゃない。
これは名案かも。と思った晃二だが、賛同しながらも基本的な疑問を口にした。

「なかなかいい案じゃん。でも、忍び込むって…どうやって?」
荒ケンも同じ疑問の目でウメッチを見つめた。
少しの間があってから咳払いして声高に帰ってきた返事は「そう、それなんだよな、問題は」であった。
「えっ」という声を発した後に晃二は聞き返した。

「問題って……。もしかして、どうやってってことは考えてないの?」
ウメッチは、さも当たり前のことかのようにうなずき、「その通り」と言って笑った。
どうやら本当にその先については何も考えていないようである。
絶句している二人を尻目に「どしたらよかんべぇ」と、おどけて歌っている姿を見て、腹立たしさよりもバカバカしさが込み上げてきた。

「それじゃしょうがねぇだろう」
「ったく、ちゃんと考えてから言えよ」
膨らんだ期待に水を差された荒ケンはウメッチの野球帽のツバを叩いた。
その帽子はジャイアンツはジャイアンツでも、サンフランシスコ・ジャイアンツのものだった。
ほとんどの子供が通学用の黄色い帽子にYGとマークの入った読売ジャイアンツのものをかぶっている中、彼だけが親のつてで手に入れた本場もんを持っていたのである。
そのせいか、彼がエラーしたり調子こいたりすると、みんなはよく妬みを込めてツバを叩いた。

「……でも、なんとかできねぇかなー」
誰にともなく晃二は呟き、空を見上げた。
ちょうど一ヶ月ほど前、晃二は新品ボールを自らのバットで放り込んでしまったのだった。
それは親から誕生日にグローブと一緒に貰ったL球だったので、イニシャルのA・Kを書き入れ大切に扱っていたものなのだ。未練たらしく呟くのも仕方ない。

「今回のアイディアはまぁまぁやけど、なぁ」
荒ケンが上目遣いで同意を求める。
「そうだな。具体的な方法があれば別だけど」
「だからさぁ、それをさぁ、お二人に考えて欲しいんですよー」
いつもの、困った時に出る猫なで声で言うと、顔をグッと縮こめた。
クシャおじさんの顔真似のつもりなんだろうが、いちいち付き合ってはいられない。

「うーん、2階の窓は梯子でも届かないからロープかけるわけにもいかないし。かといって、他の道具を使ってもあの高さじゃ無理っぽいよなー」
「それに夜中ならまだしも、真っ昼間ならすぐ捕まるで」
「夜は怖いから止めだけど、日中でも誰にも見つからずに侵入する方法があるはずだよ」
ウメッチはすがるような目で二人を交互に見る。
晃二は溜息混じりに「そうだなぁ」と答えるのが精一杯だった。

 三人ともまた黙り込んでしまった。今度は斜め上を睨むような格好で。
「まぁええよ、後で考えようや」
荒ケンはそう言って勢いよく立ち上がり、二、三歩助走をつけて高くボールを投げた。

 見上げた上空は、絵の具を水に溶いたように澄み渡ったブルーをバックに、立体感のある雲が左から右へと足早に流れている。
頂点に達したボールは再び我々の世界に戻ってきて、荒ケンのミットに収まった。
パンッと小気味よい音が辺りに響いた。


〈#2へ続く〉
https://note.com/shoji_kasahara/n/ned7fda082fea

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