学ぶを問い直す
少し前に話題になった「リスキリング」という言葉に違和感を覚えています。
なんで違和感があるのかわからない。
でもなんか「これからはリスキリングが必要」と言われて「そうだ!」と思えない自分がいる。なぜ??
このモヤモヤに決着をつけるべくnoteを書いています。
つまりリスキリングとは、新しい文化や技術に適応するために自分の知識やスキルをアップデートすることのようです。
もちろん、企業がこれから生き残っていくためにリスキリングは必須だとは思います。
が、個人としてはもっと人生に必要な学びがあるのではと思えてしょうがないのです。
近い領域の言葉として「リカレント教育」というものもあります。
こちらも割とスキルや知識のアップデートの視点に近い言葉のようですね。
違うところと言えば、リスキリングは企業や職業単位での学び直しの意味合いが強いけれどもとリカレントはより本人のライフステージや人生の選択肢を広げる目的に使われている点でしょうか。
リカレント教育と検索するとよく出てくる図。
これまでの学習・仕事・引退という単一ステージから会社勤め以外の選択肢を模索しながら進むマルチステージの人生に適応するための知識やスキルのアップデートを行うのがリカレント教育という立ち位置のようですね。
もう1つ、「生涯学習」という言葉もあり、仕事以外の趣味や「生きがい」に通じる学習も含まれる言葉。
きっと他にもあるでしょう。
追いつくためのインプット?
そもそも私は、なんで「リスキリング」という言葉に違和感を持っているのか。
「リスキリング」ってどちらかというとデジタルが進む現代に合わせて知識やスキルをアップデートしよう、的な目的で使われることが多いと思うんです。
もちろん直近の課題として、デジタル化から出遅れてしまった企業や人材の意識を変えていくことは必須だと思います。
でもでも。
このデジタル化の波に乗るのも大事だけど、変化の激しい今、ただ新しい知識やスキルをインプットするだけでいいの?
Web業界は今、やれメタバースだ、AIだ、DXだ、デジタルだと新しいツールや価値観が2・3ヶ月単位で生まれては流れ消えていく…まるで激流です。
そんな速さで色々なものが変わっていくのだから、ただインプットしたものはあっという間に過去の「古い価値観」になり変わってしまうような気がします。
自分の貴重な時間やリソースをそんなすぐに淘汰されそうなものに使っていいのか。
そんなことを考えているうちにある言葉に出会いました。
これまでの学びを問い直す「アンラーン」
「アンラーン」という言葉は聞いたことありますか?恥ずかしながら私は今日知りました。
アンラーンってなんなん?
古代の王様の名前みたい。
なんて思ってました。
Un(逆)+Learn(学ぶ)でUnlearn(アンラーン)。
調べてみると、アンラーンとは、学ばないとか、これまでの学びを否定するものではないようです。
「学びほぐし」とも言われいるそうです。
でもなんだか、
これまで身につけてきた知識や技術、常識を疑うことってこれまでの自分を否定しているようで怖い。
人は一貫性を好むものなので、自分の中にあったはずの軸が行方不明になるのは不安だし、自信をなくすこともあります。
でも、変化と多様性の時代に何十年も変わらない価値観なんてほんの少ししかないような気もするのです。
「ハッとする瞬間」に出会っているか
突然ですが、最近後頭部をガンっと殴られたような、自分の価値観をグラグラ揺さぶられるような経験をしましたか?
私はこの価値観グラグラ体験が結構好きで、自分が揺さぶられるのも、人がグラグラしているのを見つけることも楽しいタイプです。
どんな時に価値観がグラグラするのか?
私の場合、自分の考えに対して否定的な意見を聞いた時に「え?なんで?」と感じる瞬間からはじまります。
先日、友人から「フリーランスなんて私には怖くて無理」といわれたことがありました。
その友人は会社員で
・会社勤めと保育園、家庭との両立が大変
・働き方を変えたい
と悩んでいました。
そんな友人にすかさず私は「え?なんで無理なの?」
と聞き返します。
掘り下げると友人は「(安定して給料の入らない)フリーランスなんて(不安定な仕事につくのは、たとえ働き方が変わっても精神的に不安定になるから)怖くて無理」と言いたいようでした。
どうやら「安定の定義」と「安定と幸福の優先度」が私と友人ではかなり違うらしいぞ。
この意見はごくごく普通だと思います。
ただ、意見が対立軸にある時、受け取る側が「自分の考えや生き方を否定された」と捉えるのか「ハッとする瞬間に出会った」と捉えるかでアンラーンになるか心を閉ざすかが分かれるかもしれません。
当時は「へぇ〜そんなふうに思ってるんだねぇ」と話は終わりました。
ところが後日、友人から「副業はじめたよ!」と連絡をもらいました。話を聞いたら2人目の出産をきっかけに本業のスキルを活かした副業をはじめ、今では独立も視野に入れているよう。
これまでと別の道にアクセルを踏む友人が眩しい。
没頭しては見つめ直すを繰り返す
部活でも仕事でも、何かに没頭して得た経験はかけがえのない財産。
一定の成果が出るまでは思い込みも必要だと思います。
でもなんか生きづらい。息苦しい。思うように進まない。
そんなことが続いている時は、もしかしたらこの思い込みや常識が自分の成長の妨げになっていないかを疑いたい。
特に育児家事に全力を注いできた方。
我慢が美徳と○年耐えた先に、その我慢が報われる瞬間が果たして来るのか?
もっと言えば、この我慢は誰のためなのか。
子どものために耐えてきたと思っていたけど、それは本当に子どものためになったのか。
正直見つめることすら怖い。
でも、これまで忍耐にアクセル全開だった努力を一旦ニュートラルに切り替えて見つめ直すことで「あれ、私こんな景色の中を走ってたの?」と気づくことも多いはずです。
詰め込むことが「学び」ではない
さて、盛大に脱線しました。
これまで、リスキリングという言葉に対する違和感を探るためにここまで書いてきました。
今回行き着いたひとつの仮説は
「新しい知識やスキルを取り入れたからといって本人の視点や価値観がアップデートされないと意味がなさそう」
ということです。
スキルや知識のインプットで視野が広がったり、生産性があがったり、できることが増えることはもちろんあります。
しかしその知識やスキルが本当に必要なのか?糖質ダイエット論争のようにまた数年後に否定される未来は捨てきれないですよね。
「今まで私がやってきたことはなんだったんだ?」「自分が命を削ってやってきたことが否定される」といったネガティブな感情に支配されることもあります。
そんな時、自分をニュートラルにできる「アンラーン」を手持ちのカードに加えられれば、生きづらい、息苦しさを感じた時にいつでもこれまでの学びで染みついたものから不要になったものは手放すことができる。
どんな世界でも生き残っていける自信になる気がします。
手放すことで成長を助けるのがアンラーンのプロセス
自分の「コア」を持つことで変化に強くなる
とはいえ息苦しくなるたび、これまでの自分を否定して生きていくのはなかなかの修羅道ですよね。
東大経済学教授柳川 範之氏とオリンピックメダリスト 為末 大氏 の著書『Unlearn(アンラーン) 人生100年時代の新しい「学び」』の中にこんな一説があります。
コアって一体なんでしょうね。
ここにきてまた迷子です。
私を含め、多くの人はこのコアがわからないから社会に適応するために身につけたスキルや勉強、インプットした全てが「自分=コア」になってしまっているんだと思うんですよね。
アンラーンをはじめるためにもこのコアとやらを見つけたい。
私がアンラーンできる日は来るのだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?