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傷のついたレコードのような私たちへ:傷ついた過去を抱きしめ「今」を生きる

大学生のとき、一人暮らしの部屋に意気揚々とレコードプレイヤーを買った。どうにか背伸びをしたくて買ったけど、レコードのこともよくわからない。

少しずつ調べたりしながら、レコードを買い足す。レコードを家できくのは楽しかった。自分の手で音を流し始めるという幸福があった。ただ、4枚目に買ったレコードが壊れていたことがあった。
同じところをずっとループし続けていた。明らかに終わらないそのリピートに、はじめてレコードの傷の意味に気づいた。針がとんでもとに戻っていくのだった。

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先日読んだ『残酷な神が支配する』という漫画に、傷のついたレコードが何度も同じところを歌い続けるように、私たちは、傷ついたことを、嫌なのに、苦しいのに気づかずに繰り返してしまう、というセリフがあった。主人公ジェルミは、性的虐待を受け、苦しんだのに関わらず、自分の体を売り同じ苦しみを味わう道に進む。そしてジェルミを助けようとするイアンもまた、ジェルミを救うはずが、ジェルミの体と心を傷つけてしまい、それにイアン自身も苦しんでいく。何度も何度も、彼らは、傷ついた経験のメロディをループし続けていた。



多かれ少なかれ、わたしたちは「もう二度とこんなことを経験したくない」「こんな自分は嫌だ」と思っているのに、切り離したい嫌な自分をうまく切り離せずに、また同じようなことを繰り返してしまうことがある

たとえば、私は、やりたくない仕事を頼まれたとき、やりたくないからうまくできなくてその人を怒らせてしまうことは予測できるのに、「誰かに自分の意見を言って嫌われた」という過去の傷ついた経験がトラウマになっていて、自分の思ったことを言えなかった。結局仕事もうまくできなくて、その人との関係が悪化する。こんな自分は嫌だ、と思うのに、「意見をいう自分」になれなず、同じ失敗をまた繰り返してしまっていたときがあった。

人は過去の失敗経験から学べるのだ、PDCAサイクルをまわして学んでいくのだ、という経験学習の考え方は理論的にはよくわかる。
実際にそういうふうにうまく進んでいけることもあるだろう。ただ、そうやってうまく経験から学べるときは、経験を、自分の感情を受け止めて切り離し、行為と結果として客観的に整理できたときに限るのだろうと思う。

しかしながら、すべての経験は、私たちの感情(傷)と切り離された「行為と結果」として存在しているのではなく、その経験を経験した自分の心のなかに存在しているため、経験からそのときの心や感情、感覚と切り離すことは難しい。だから、失敗経験から学んで次から改善していこうぜ!というふうに言葉で書くほど簡単にはいかないのだ。どうしても恐怖や傷がつきまとう。


それにきっと、わたしたちは、傷つくことから抜け出したいけど、傷つくことから抜け出すということへの「恐れ」も同時に感じているのだ。
過去の傷ついた経験を、心の奥の奥の地下室に隠し込んで、みないふりをして、もうそれが外にでてこないことをあとはひたすら祈るときもある。
傷を直視することはしんどい。傷を治療して、新しい自分になる自信もない。
傷つきたくないと願っているけれど、「傷ついた自分」はもう見慣れているから、その自分に出会うこと自体はしんどいけど「未知への恐怖」はない。
過去の自分はしんどいし嫌いだけど、「まだ見ぬものへの恐れ」「新しい傷ができるんじゃないかという恐れ」に出会わなくてもいいのだ。

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だけど、わたしたちは、ループする傷を過去として、受け止めて、未来のメロディへを奏でていくこともでできる。

過去は過去なのだ。過去の自分と今の自分は共存しえない。今はいつだって、過去と未来を切り裂いていく。
過去の自分は、その経験で失敗したし、傷ついたりした。だけど、今の自分がそこにいって同じ経験をしたとしても、まったく同じ行動や感情にはならないはずだ。

『残酷な神が支配する』の主人公ジェルミは、自分を虐待していた義父の死と最愛の母の死というシンボリックな出来事の数年後、過去の自分が認めることができなかった「愛する母が、自分を性的虐待から助けてくれなかった」という悲しみと母への怒りの存在に気づく。過去のジェルミは、母に助けてほしかった、ということに気がつくことで生まれる新しい悲しみや絶望に耐えられなかったから、防衛反応として気づかないようにしていたのかも知れない。だけど、数年後のジェルミは違った。しんどいけれど、自分の感情に気づくことができた。すぐに変わることはできないけれど、同じ歌は歌わなくなった。彼の人生は次の展開にひらいていくのだった。

過去の自分を、「過去の自分」という他者として抱きしめて、受け止めていくことは本当に難しい。けれど、今の私が未来の私にできることは、きっと、過去の自分を抱きしめる(他者化し、存在を肯定する)ことなのだろう。迎合するわけでも、統合するわけでもない。存在を抱きしめることで、成仏させることに近いのかもしれない


勇気をだして、レコードの針を傷の先に落とすのだ。
勇気を出して、過去の自分ではなく、今の私はどうしたい?どう感じている?そこに集中していくのだ。


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最近のわたしは、過去の自分は、過去の自分として、抱きしめることができるようになってきた。それはもう、本当に色んな人のおかげで。
だけどまだ、昔の自分の写真をみたり、思い出に浸ることに苦手意識がある。だけど、その傷もまたいつか抱きしめて今を歩めるように。

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