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【「道徳」批判6】 なぜ、「道徳」授業では事実を調べないのか

 「道徳」教材は人間を尊重していない。

 当然、その教材に基づく「道徳」授業も人間を尊重しないものになる。(注)
 例えば、文部科学省は次のような授業案を例示する。

【主な学習】
①ヘレンの家庭教師になることを決めたとき、アニーはどのようなことを考えたか。
 ・私にできるか心配だ。
 ・目の不自由な人たちのために役に立ちたいという夢を実現したい。
 
 (『「私たちの道徳」活用のための指導資料(小学校)』文部科学省、154ページ)

 教師が「アニーはどのようなことを考えたか」と子供に訊くのである。「考えた」ことを想像させるのである。
 しかし、実在の人物が「考えた」ことを勝手に想像するのは人間無視である。
 アニー・サリバンが「考えた」ことは、想像することではなく調べることである。
 さらに、この授業案では、その問いに対して「目の不自由な人たちのために役に立ちたいという夢を実現したい」という答えを想定する。
 しかし、サリバンはそのような「夢」は持っていなかった。

 アニーは自分では、人を教えることなどまっぴらだと思っていた。アニーは人生を十二分に味わいたいと思った。パーキンズ〔盲学校〕の教師たちが面白くもない教科を苦心して教えて、さっぱり効果をあげていないのを見てきたからである。一生、教室に埋もれ、生徒を教えて毎日を送るなんてまっぴらだった。
 
 (J・P・ラッシュ『愛と光への旅』新潮社、32~33ページ)

 アニー・サリバンは「目の不自由な人たちのために役に立ちたいという夢」を持っていなかった。勝手に想像されるのは迷惑である。持ってもいない「夢」を持っていたことにされるのは迷惑である。
 では、実際は「アニーはどのようなことを考えた」のか。
 次の文章で詳しく説明した。

 アニー・サリバンが「考えた」のは次のことである。

 「……〔略〕……わたしが博愛精神からここへきたわけではなかったことは、あなたにも、アナグノス先生ご自身にも、またわたし自身にも、よくわかっているのですから。それなのに“ハウ博士の高邁な精神に影響され、小さなアラバマ娘〔ヘレン・ケラー〕を無明の世界から救い出そうという願いに燃えて”なんて、あまりにもこっけいではありませんか! わたしがここにきたのはなんとか自分で生計を立てて行かねばならなかったからで、わたしにしろ、アナグノス先生にしろ、わたしがこの仕事にとくに適していると考えたわけではなかったのです。わたしは最初に提供された機会に飛びついたにすぎません」
 (J・P・ラッシュ『愛と光への旅』新潮社、68ページ)

 サリバンが考えていたのは「生計」のことである。「なんとか自分で生計を立てて行」くことである。
 サリバンは言う。「わたしは最初に提供された機会に飛びついたにすぎません」 サリバンには他の選択肢が無かったのだ。
 以上のように、私はアニー・サリバンが「家庭教師になる」と決めた理由を調べた。事実を調べた。
 なぜ、「道徳」授業では事実を調べないのか。
 なぜ、勝手な想像を子供に述べさせるのか。
 これは〈他人の内心を勝手に想像して述べてよい〉と子供に「教えて」いるのである。
 
  「道徳」授業では事実を調べない。
  これは〈他人の内心を勝手に想像して述べてよい〉と子供に「教えて」いるのである。

 
 勝手に想像されて、サリバンは全く別人にされてしまう。
 サリバンにとって勝手に想像されるのは迷惑である。
 「道徳」授業は人間を尊重しない。
 「道徳」授業は不道徳である。
 それは、他人の内心を勝手に想像させるからである。
 事実を調べないからである。


(注)

 実は、教材と授業の関係は複雑である。
 〈人間を尊重しない「道徳」教材〉を徹底的に批判する授業をおこなうこともできる。私が指摘してきたような事実を子供に発見させるのである。
 そのような授業ならば、〈人間を尊重しない「道徳」教材〉がよい教材になることはありうる。悪い教材かよい教材かは解釈による。どのように使うかによる。
 しかし、それは教材の作者が想定していた使い方ではない。
 また、ほとんどの場合、教材文を批判する授業はおこなわれていない。
 だから、この文脈では〈教材が悪ければ授業も同じように悪くなる〉という単純な論理で論述を進めている。

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