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床屋と図書館 その5


 真文は、だいたい月に1度は髪を切りに行きます。
 次にバーバー金子を訪れたのは春休みに入ったばかりの日の午後でした。
 バーバー金子のドアを開けると、金子のおじさんが陽だまりの中にある待合用の椅子にぽつんと座って新聞を広げていました。

「ああ、いらっしゃい」

 おじさんは新聞を閉じると「そこ、座って」と一番奥のカット台を指差しながら、ゆっくりと立ち上がりました。

 首にケープを巻いてくれるおじさんの姿を鏡越しに見ながら、真文はおじさんの頭が禿げていることに気がつきました。頭の両サイドにはくるくると癖の強い髪が密集しているのですが、てっぺんだけがおまんじゅうの薄皮を貼ったようにテカテカとしています。
 『鉄腕アトム』の博士みたいだと真文は思いました。
 ただし博士の頭に残された髪は白いけど、金子のおじさんの髪は黒々としています。大人の頭というのは髪が白くなってから少しずつ禿げていくものと真文は思っていましたが、そうではないこともあることを学びました。

「スポーツ刈りでよかったね?」

 おじさんに言われて真文は無言で頷きました。
 真文は「はい」や「いいえ」をわりとはっきりと口にできるタイプの子ではありますが、本当は髪を伸ばして中野や羽賀のような髪型にしたいという密かな想いが真文を無言にさせました。

 おじさんは右手に鋏を、左手に櫛を持ち、真文の右耳の上あたりの髪から切り始めました。
 
 え?

 真文は不安になりました。
 死んだ横山理髪店のおじさんも、それからこの間の金子のおばさんも、スポーツ刈りといえば、まず、バリカンで頭の周囲を刈ることから始まるものです。

 金子のおじさんは何かを間違えているのかもしれない。
 
 真文は鏡の中のおじさんの顔をじっと見つめましたが、おじさんは散髪に集中しているようで、一向に目が合いません。
 早いテンポでサクサクと髪が切られていく音を聴きながら、何も好き好んで良いと思っているスポーツ刈りでもあるまいしと、真文はだんだんどうでも良い気持ちになっていきました。
 
 ふいに、この間は店内に流れていたラジオが今日は無音なことに気づきました。

「あ、ラジオ…」
「あ、つける?」
「いいえ…」
「僕は静かな方が好きだからお客さんがいないと消しちゃうんだ。つけるのを忘れていたよ。聞きたい?」
「いいえ、大丈夫です」

 おじさんは自分のことを「僕」と呼びました。
 真文も自分のことを「僕」と呼びます。
 お父さんや真文のまわりにいる大人の男の人たち、それから中野や羽賀はみんな、自分のことを「俺」と呼びます。真文も自分のことを「俺」と呼んでみたいのですが「僕」から「俺」への切り替えのタイミングがわからず今日に至ります。変なタイミングで「俺」と呼んでしまい、また、お母さんに「色気づいちゃって」なんて言われるのは避けたいのです。

 やがて、スポーツ刈りは完成しました。
 おじさんは何も間違っていませんでした。
 むしろ、おじさんは髪を切る名人なのだと真文は理解しました。
 いつか工場見学で見た江戸切子ガラスの職人さんや、テレビで紹介されていた手作りのお豆腐屋さんと同じように、バリカンを一切使わずにスポーツ刈りを仕上げることができる、選ばれし職人技の持ち主なのでしょう。
 そう思うと、確かに今日のスポーツ刈りは真文の目にもいつもよりちょっと格好よく見えます。どこがどう格好いいのかを具体的に説明はできませんが、大人なら違いがわかるのかもしれません。

 ただ、おじさんは散髪中に櫛を2回落としました。
 真文は「弘法も筆の誤り」という諺を思い出します。
 4歳の頃からお習字を習っていて、今では2段の腕前である真文は、もっと高級な筆が欲しいのですが、お母さんは「弘法筆を選ばず」と言って絶対に買ってくれません。
 真文はこの「弘法」という人が好きになれません。
 「筆を選ばない」と偉そうなことを言っておきながら、時々「筆を謝ってしまうこともある」なんて、なんだかとても格好悪いと思うのです。

 真文の全身を覆う白いケープの上に落ちてきた櫛は、「これ、すごく高いんだよ」とお母さんが自慢していた鼈甲の髪留めと同じ色や模様をしていました。
 おじさんは弘法と違って高級な道具を選び抜いているに違いありません。それでも時々落としてしまうのですから、それはもう鋏と櫛だけでスポーツ刈りを仕上げるということは、とても難しいことなのでしょう。少なくとも、横山理髪店のおじさんや金子のおばさんにはできないことなのです。

 しかも、散髪代の1200円を払うと、おじさんは段ボールからハートチップルとポテトチップスのコンソメ味の小袋を取り出して「どっちがいい?」と聞いてくれました。バーバー稲葉では帰り際、子供の客にはスナック菓子をくれます。
 真文は大好きなハートチップルを選びました。
 この間は、真文の意見など聞かれないままおばさんにポテトチップスの塩味を手渡されました。塩味は真文にとってこの世で一番退屈な味です。
 
 腕は名人級で、お菓子は選ばせてくれる。
 バーバー金子で髪を切るなら、絶対におじさんの方が良い。

 春めいた風が優しく吹きわたる帰り道、桜の木に二つ三つ白い蕾がついているのを眺めながら、真文はそのような結論に達しました。


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