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床屋と図書館 その8

 真文は月に一度、髪を切りに行きます。
 真文がそう決めているわけでなく、真文のお母さんの決め事です。
 金子のおじさんに体を触られた翌月も、お母さんに「そろそろ髪を切ってきなさい」と言われましたが、真文は2日連続で「面倒くさい」と拒みました。3日目、お母さんが「いい加減、髪を切ってきなさい」と怒り気味だったので、真文は承諾しました。
 その日は、5年生が放課後の校庭を優先的に使える木曜日でした。

 阿部や羽賀たちとサッカーを終えて、真文はバーバー金子へ駆け出しました。
 バーバー金子のドアを開けると、金子のおじさんがひとりで新聞を読んでいました。5月に入って陽がまた少し伸び、店内には浅い西陽が差し込んでいました。

「いらっしゃい、こっち座って」

 おじさんはいつもどおり真文をカット台に案内して、いつもどおりカット台の高さを真文の座高に合わせ、いつもどおり真文の首にケープを巻きました。
 だから、いつもどおり右手に鋏、左手に櫛を持って、真文の頭の右側面から刈り始めるものと思っていたら「もう、閉店だから閉めちゃうね」と西陽が入り込む窓のカーテンを閉め始めたので、真文は喉のあたりとキュッと締め付けられたような気分になりました。

 真文はわかっていました。
 お客さんがいつ入店してくるかもしれない昼間のうちは、おじさんはただの床屋さんです。だけど、先月のように、もうお客さんが入ってこないであろう閉店間際の時間帯になると、おじさんはただの床屋さんとは違う別の顔を真文に見せるのでしょう。
 そんな気がしたから放課後に校庭でサッカーをする日を待って髪を切りに来たのです。普段はわりと従順な真文が2日連続でお母さんに小さな反抗を見せたのはそのためです。

 だけど、真文はそんなことに気づいていないふりをしていました。
 それは自分自身に対しての「ふり」でした。
 お母さんに床屋へ行けと怒られた日が偶然サッカーの日だっただけ。サッカーをしてのだから閉店間際になってしまうのは仕方がない。そう自分に言い聞かせていました。
 頭の中というか、心の中というか、とにかく真文という人間の中のどこかにすごくごちゃごちゃしていて上手に説明できない何かがある。そう感じてはいましたが、子供なんだから仕方がないと、自分で自分に子供のふりをして誤魔化していました。
 
 金子のおじさんはカーテンを閉めるだけでなく、外でくるくる回っている床屋ならでは電灯の電源を落とし、ドアにぶら下がっている札をCLOSEの方にひっくり返したので、真文の鼓動はますますスピードを上げていきました。
 
 だけど、その日、櫛は一度も落ちてきませんでした。

「はい、これでいいかな?」

 おじさんはいつものとおり鏡を利用して刈り上がった真文の頭の後ろ側を見せてくれながら尋ねました。真文はあっけに取られながら「はい」と言いました。ちなみに真文はスポーツ刈りの自分の頭を「これでいい」と思ったなど一度たりともありません。
 
 おじさんは鋏と櫛を置き、白く小さな陶器の中で短く丸い刷毛を使って顔剃りに使う泡を仕立て始めました。やがてその泡が真文のうなじに塗られ、そこに剃刀が当てられました。
 真文は肌に刃物が当たる感触が苦手でした。自分が爪を立てられてキーッと鳴くガラスになったような気分がします。
 
 ですが、今日はそれどころではありません。

 先月、この店で起こったことは先月だけのことだったのだ、と真文は考えていました。おじさんは、自分の息子にするのと同じような感覚で、小学校5年生の男子をたまたま揶揄ってみたかっただけだったのでしょう。
 真文はほっとしました。
 嘘です。
 がっかりしていました。
 だけど、胸のあたりで今か今かと爆発を待ち望んでいた高揚感が行き場を失ってスーッと消えていくしかないこの感じは、落胆ではなく安堵なのだと自分で自分に言い聞かせていました。
 
 やがてうなじが剃り終わり、顔を剃るためにカット代の背もたれが倒されていきました。体がゆっくりと180度に開いていくにつれ、真文は重力から解放されていくような軽さをようやく感じ始めました。

 すっかり意識にありませんでしたが、ラジオからは今日も『子ども電話相談室』が流れていました。
 店の奥の暖簾の向こうのおそらくキッチンである場所に金子のおばさんの気配は今日はなく、店内に食べ物の匂いもなく、顔剃の泡の匂いだけがただ清潔に漂っていました。

 小さな振動をともなって真文の体が完全に仰向けになりました。真文は目を瞑り温かな泡が顔中に塗り広げられるのを待ちました。
 その時、下半身に触れられる感触を感じました。
 真文は慌てて目を開き首を低く上げました。
 自分の体なのにそうとは思えないほど遠くの方で、おじさんの右手が子猫の頭を撫でるように真文の半ズボンの少し盛り上がっている部分をさすっていました。
 驚いて声も出ないでいる真文に、おじさんは少し笑みを含んだ声で尋ねました。

「マスターベーションは、しているの?」

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