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床屋と図書館 その4

 


 ドアを開けると小さな鈴の音がしました。
 3つ並んだカット台の一番奥に座ったお爺さんの白髪頭にバリカンをあてていたおじさんが「いらっしゃい」と言いました。
 バーバー金子は明るいお店でした。
 道沿いに面した大きな窓から冬晴れの陽が差し込んでレースのカーテンがキラキラと透けています。
 
「おーい、お客さんだよ」

 おじさんが声を上げると、店の奥の暖簾の向こうからおばさんが顔を出し、「あらあら、いらっしゃい」と言いながら小上がりを降りてサンダルを履きました。
 これが金子のおばさんで、あれは金子のおじさん。
 真文はそう悟りました。ふたりには真文と同じ小学校を卒業した、今は中学生の息子がいますが、真文に面識はありません。

「うちは初めてよね?」
「はい」
「今日はどうする?」
「スポーツ刈りでお願いします」
「スポーツ刈りね。わかりました」

 金子のおばさんは真文を一番手前のカット台に座らせ、首に白いケープを巻いてくれました。それからバリカンの準備をするおばさんの姿を真文は鏡越しにじっと見つめていました。 

「バーバー金子のおばさん、すげえボインなんだぜ!」

 この間の休み時間、羽賀がそう言い出した瞬間、男子たちは爆笑し、女子たちは「最低、エローい!」と羽賀を非難しました。
 日直だった真文は黒板いっぱいに書かれた谷川俊太郎という人の詩を消しながら、その騒ぎを背中で聞いていました。
「俺も来週バーバー金子に行くから楽しみだぜ!」
 中野の声が聞こえました。
「えー! 中野までエローい! 」
 女子たちが悲鳴にも近い声を上げました。

 女子の前でこんな話ができるなんて真文は信じられません。エッチな人間というのは羽賀や中野のことを言うのです。真文は羽賀や中野の髪型や服装を真似したいとは思っていても、エッチな人間になりたいとは思いません。

 しかも、バリカンを片手に「じゃあ、始めるわね」と微笑んだ金子のおばさんの黄緑色のエプロンの胸の辺りは、たしかに大きく盛り上がっているようには見えますが、そもそもおばさんの体は全体的に太っていて、どこまでが胸でどこまでがお腹なのか、真文にはよくわかりません。

 そんなことを考えていると、奥のカット台にいるお爺さんが真文に尋ねました。

「君は、もしかして横山んとこで散髪していたのかい?」
「はい」

 真文はすぐに返事をしましたが、お爺さんは耳が遠いようで真文が困っていると、金子のおばさんが真文の頭にバリカンをあてながら「そうなんですって」と伝えてくれました。

「おお、そうかそうか。あいつは俺の兄貴の同級生の息子なんだよ。兄貴の葬式にも来てくれてな」
「あら、そうなんですか。横山さんのところも大変でしたねえ」
「親より早く逝っちまってよ。アイツは馬鹿だ。これ以上の親不幸はないよ」
「まだ50代でしたもんねえ」

 真文は黙っていました。横山理髪店のおじさんの話など、できることなら積極的にしたくはありません。

「アンタんとこ、付き合いあったの?」
「そうですね。まあ、個人的な深いお付き合いはありませんでしたけど。ねえ?」

 金子のおばさんは金子のおじさんに問いかけました。

「組合の会合では、時々、お話しさせていただきましたよ」
「まあ、商売敵だもんな」
「いえいえ、あちらの方がうちより古くからやってらっしゃいますから。私たちがここで初めた時も感じ良くしてくださいました」
「アイツは顔も頭も悪いけど、男気があって中身は悪くなかったな」

 真文は鏡越しに店内を見渡しました。
 横山理髪店にはテレビがありましたが、バーバー金子にはラジオが流れているだけでした。目で見えて音も聞こえるテレビというものがあるのに、ただ音が聞こえるだけのラジオに何の意味があるのか、真文にはわかりません。
 退屈な真文は鏡に映る自分の顔をじっと見つめました。
 お母さんは二重瞼ですがお父さんは一重瞼です。そして誰もが真文の顔はお父さんの似ていると断言します。特に目がそっくりだそうです。中くらいの太さの黒のサインペンでシュッと線を描いただけのような自分の目が真文は嫌いです。中野や羽賀やテレビに出てくる男のアイドルたちは、みんな、ぱっちりとした二重瞼の黒くて深い目をしているのに。

 真文の頭を滑るバリカンの刃の間から短い髪がこぼれ落ち、白いケープの上でくっつきあって埃玉のように転がっています。髪が短くなればなるほど、真文は自分が格好悪くなっていくような気がします。
 
 大人たちはいつの間にか病気の話をし始めました。
 
 真文は静かに目を閉じました。



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