5年国語「たずねびと」の学びから

5年国語 「たずねびと」の学びから
                             すべきれ
 5年生2クラスをお借りして、2020年から光村図書5年国語教科書に掲載されている朽木祥作「たずねびと」を7時間かけて読んでいった。
 作者の朽木祥との出会いは、2014年~2019年まで3年国語に掲載されていた「もうすぐ雨に」で、国際教室にやってくる児童用にリライト教材文を作成したのがきっかけで、その後、原爆や被爆を題材にした小説をいくつか読んだことである。「もうすぐ雨に」は、雨がふりそうになると「チリン」という音が聞こえ、主人公の男の子が動物と会話できるようになるというファンタジーである。「たずねびと」でも夢の部分はファンタジーっぽいところがある。今年3月11日に日本ペンクラブ「子どもの本」委員会主催の「13年目の「3・11」」で初めて作者を拝見した。プログラムの最初に中村敦夫さんが追悼那須正幹さんへ「ねんどの神さま」を朗読されたのが印象に残っていて、学校の図書室に今年一冊いれてもらった。9月にお休みの先生の補助で入った6年の教室でさっそく「ねんどの神さま」を朗読させてもらった。ところで、この「3・11」のポスターを見るまで、私は朽木祥さんをてっきり男性だと思いこんでいた。
 
 教科書に掲載されてからまだ日が浅いとはいえ、ネット上ではそれなりに「たずねびと」の実践報告や教材分析などを拝見することができた。どれもいろいろと学ぶことが多く、それらをかなり参考にさせてもらった。この作品を読んだことのない人がほとんだと思うので、あらすじを少しくわしく記してみる。

  駅の構内で、「さがしています」という大きな文字のポスター(原爆供養塔納骨名簿)を見つけた主人公の綾。名前だけが何段も何段も書いてあるそのポスターに、自分と同じ年れい、同じ名前の「楠木アヤ」を発見。その晩、ポスターの夢を見た綾は、翌日、もう一度ポスターを見に行き、メモに「死没者数」などを写しとる。その夜、「アヤちゃんのこと、どうして何十年もだれもさがしにこないのかな」と母にきいてみる。すると、母は「みんなでアヤちゃんをさがしに行ってみましょうか」と提案。
  約束の日、母が行けなくなり、兄と二人で広島へ行くことに。
路面電車で平和記念公園近くの橋の手前で降りると、目の前は原爆ドーム。「平和記念資料館」に入ると、「何もかも信じられないことばかり」で、綾は「頭がくらくらして」くる。「一発の爆弾で」その年の終わりまでに「約十四万人の人がなく」なったことを知る。
「うちのめされるような気持ちのまま」資料館を出た後、追悼平和祈念館に入ると、大きなモニターに原爆でなくなった子どもたちの顔が次から次へとうつし出される。「気が遠くなりそう」になりながらも、綾は目がはなせなかった。
受付の案内で、原爆供養塔(広島では「土まんじゅう」と呼ばれる)へ行くと、ほうきとちりとりを持ったおばあさんが寄ってきて、下には、身元の分からないおよそ七万人と、名前だけが分かっている八百人余りの人々のお骨がおさめてあることを教えてくれる。綾が「何十年も、だれもむかえに来てもらえないなんて、どうしてなんですか」とたずねると、「家族もみんなぎせいになったのかもしれんね」とこたえる。
綾は(おそるおそる)「ポスターにね、わたしと同じ女の子がいたんです」ときり出すと、おばあさんは顔を「ぱっとかがや」かせた。おばあさんはしゃがんで「アヤちゃん、よかったねえ。もう一人のアヤちゃんがあなたに会いに来てくれたよ」と供養塔に手を合わせ、綾に笑いかけながら「この楠木アヤちゃんの夢や希望やらが、あなたの夢や希望にもなって、かなうとええねえ」と話す。そして、「アヤちゃんのことを、ずっとわすれんでおってね」と別れぎわにおばあさんから伝えられる。
夕日の橋を渡るとき、「昼過ぎに、この橋をわたったときには、きれいな川はきれいな川でしかなかった。ポスターの名前が、ただの名前でしかなかったように」と一日を綾がふり返る場面が続いて物語は終わる。

 作者の朽木祥は、2015~19年にかけて光村3年国語に「もうすぐ雨に」という物語文が掲載されていた。雨がふりそうになると「チリン」という音が聞こえ、動物と会話できるようになるというファンタジーである。「たずねびと」でも夢の部分はファンタジーっぽいところがある。
 さて、戦争文学ということでは、子どもたちは3年で「ちいちゃんのかげおくり」、4年で「一つの花」を学んできている。どちらも戦争中の話で、主人公は戦争当時を生きている。しかし、この物語の時代設定は現代である。話じたいはフィクションであるが、平和記念資料館や平和祈念館での体験話はほぼノンフィクションで、読者(である子どもたち)は、主人公を生で追体験するような気分になる。2002年から18年間6年の教科書にのっていた「平和のとりでを築く」がなくなったので、その代わりの教材というところもあるのだろうか。
 初めて読んだ感想にも、平和記念資料館で綾が体験したことや初めて知ったことを取り上げる児童が、1組も2組も半分以上いた。
 「原爆や戦争がどれほど恐ろしくて怖いものかわかる物語だと読んで思いました。理由は、現代の人や今の5年生は戦争を知らなくて、どういうものかわからないと思うけど、一発の原爆ですごい数の人が亡くなったり行方不明になったりして、怖くて恐ろしいと思うからです。」
 「広島市で本当に爆弾が落とされたと思うと、怖いし、悲しいし、でも名前が残っている人や、お骨だけが残っている人がいたり、…。主人公の綾ちゃんは、一回にたくさんの経験をしたなとも思ったし、自分も広島市に行って、実際に体験してみたいなと思いました。広島市で実際に起こった爆弾のことを知れてよかったです。」
など、十四万人もなくなっていて「こわい」「おそろしい」「悲しい」「信じられない」というのが多かった。
 一方、「綾がアヤをさがしに行ったところが面白かった」「綾がアヤをさがしているところがちょっと感動した」「綾は見つからないアヤを探した」など、物語の基本設定についてふれる児童も何人かいた。
 また、
「おばあちゃんが手を合わせるところをもうちょっと深めていきたい。」「綾ちゃんはおばあさんに言われて下を向いてしまった(のはなぜか)。」
「あやがあやをさがす物語だから、「ずっと忘れなければ」というところが悲しい。」
「楠木綾ちゃんがアヤちゃんをさがしに来てくれて、おばあちゃんが泣きながら「よかったねー」と言っていたので、どれだけすごいことか、いいことかがわかりました。」
など、ポイントとなる読みの視点もいくつか出された。

2時間目は、ひとつひとつの初発感想をみんなで確かめながら、8つの段落のどこと結びつきが深いか仕分けした後、クライマックス(山場)がどこになるか考えた。平和記念資料館での体験をつづった第5段落の初発感想が多かったので、クラスによってはここがクライマックスではという児童も少なくなかった。多くは、おばあさんが登場する第7段落だろうと予想した。

3時間目は、広島へ行く前までのところをみんなで読んでいった。
「なぜ何十年も経っているのにポスターが貼られているのか。」
「(アヤがなくなってから)何十年も経っているから、アヤちゃんにくわしい人が亡くなってしまったのではと思った。」
「夢に出てくるということは、頭の中にポスターの印象が深まっているんだーと思いました。」
「夢に見たのが不思議に感じました。綾は印象に残っていたからだと私は思いました。」
「アヤが夢の中へ出てきて、「広島においで」と言っている。」
「アヤさんは綾に忘れないでほしくて夢の中でこのように伝えたのだと思います。」

「今日学習して色々なことが疑問に思いました。楠木さんが「死没者数」をなぜにメモに取ったのかなどと、いろいろな考えを持ったからです。」
「なぜポスターのことをメモに写したのかがとても気になります。」
「夢にもでているから、(綾は)ちょっと調べたいと思った。」
「広島に行ったら、アヤちゃんに会えると思った気がした綾ちゃんが不思議だと思いました。」
「どうして広島に行くとなったときに、見つけられる自信が出てきたのか気になった。」
「綾がアヤを探すのにすごい真剣だと思った。」
など多彩な考えがだされた。
 また、第3時の話し合いをふり返り、次のような声が聞かれた。
「いろいろな考えがあったけど、わたし的にはどれも正解に近いというか、ピンときてすごいなと思った。」
「わからないことを予想して、予想をふやしたいです。」
「私は今日、周りの人と一緒に…というのを考えました。色々な意見を聞けて、楽しかったです。」
「今日は、みんなと意見を交流したり深めたりして色々なことが学べることができました。」
「自分と同じ意見やちがう意見がたくさん出て、「確かに」と思う事ができたので、良かったです。」
「どんどん深く考えていくごとに分からなくなっていくのがびっくりしました。」
「疑問を深めていくといろいろな意見がでてきて、すごいと思いました。」
「いろいろな疑問や意見がでてそれについて考えるのが少し苦手だったけど頑張った。」
「深く考えるとどんどんわからなくなることが不思議に思いました。」
「私は、たずねびとを読んで色々なことを調べたいです。アヤも深く悩んだりしないようにと思いました。」
など、話し合いを通して読みを深めていく自分の中の変化をふり返りに書
きとめる児童が多くいた。これらを読むと、児童の読みに対するわくわく
感が伝わってくる。

 4時間目は、前時十分時間のとれなかった、第4段落(広島へ行く前の
最後の段落)を読み直した後、平和記念資料館での出来事を記した第5段落を読んだが、グーグルマップを使って体験風に綾と一緒に広島へ行くようにしてみた。また、平和記念資料館のホームページにアクセスし、
  ・ご飯が炭化した弁当箱
  ・くにゃりととけてしまったガラスびん
  ・八時十五分で止まったうで時計
  ・焼けただれた三輪車
  ・石段に残る人の形のかげ
を一緒に見ていった。かなりリアルな追体験となったようである。
「理由は初めて写真を見てみて、予想外なことがたくさん起きていてとてもびっくりしました。」
「資料館の物を見ると、綾ちゃんみたいに頭がくらくらして、原爆でなくなってしまった人も可哀想だし、原爆って本当に怖いんだなって思いました。」
「アヤちゃんがくらくらするのもわかると思います。自分でもくらくらすると思うからです。」
「今日は、ガラス瓶や、三輪車の本物の写真を見ました。現実のものを見ると、すごく悲しい気持ちになりました。やっぱり、一発の爆弾で14万人もなくなってしまったなんて、信じられません。なので、『本当に「すごい爆弾だったんだな」と思いました。」
「実際の画像を見て改めて原爆って怖いと思った。そして実際の画像を見るとたずねびとのリアルさがすごいと思いました。そして14万人も広島市の人口から減ってしまうなんて想像できないです。」
「八時十五分に止まった時計が怖すぎる。」

 5時間目は、追悼平和祈念館での出来事を記した第6段落を読んだ。
「モニターから目が離せなかったのは大きなモニターに映った顔がなにを考えているの?って考えました。みんなの意見でたしかにって思う事もありました。」
「気が遠くなりそうなのに目を離さなかったことが不思議だった。」
「アヤがうちのめされるのも分かるなと思いました。」
「綾ちゃんが気が遠くなりそうになるまでがんばったのがすごかった。」

「追悼平和祈念館でモニターに写されてない人は遺族がいないことが分かりました。」
「追悼平和祈念館にも、楠木アヤちゃんのことは書いてなかったけれど、受付の人が(原爆供養等塔追悼者名簿のことを)知っていて、教えてくれて良かったと思いました。」
「追悼平和祈念館での綾のことなどを(授業で)考えたりしたけど、まだまだ知らないことばかりだから、もっと授業でも考えていきたいし、家などでも調べていきたいです。」
 
 6時間目は、原爆供養塔(広島では「土まんじゅう」とよばれている)での出来事を記した第7段落を読んだ。前の第5・6段落では、原爆の被害や事実について綾が次から次へと知識を得ていくことが中心であったが、ここでようやく「楠木アヤ」をたずねあてることになる。そして、なぜ何十年もだれもむかえに来ない理由をおばあさんから伝えられる。
「もしかしたら、家族もみんなぎせいになったのかもしれんね。」
そして、おそるおそる綾は話す。
 「───あの、わたしと名前が同じ女の子がいたんです。」
すると、おばあさんの顔が「ぱっとかがや」く。「おばあさんの顔がぱっとかがやいたのはどうして」という疑問を子どもが出すと、「今まで一度も」「何年も」「だれも会いに来なかった」楠木アヤちゃんに、「はじめて会いに来てくれたから」「よっぽどうれしかった」といった発言が続いた。

 だが、遺族でも知り合いでもないことを伝えると、おばあさんは一瞬「だまりこんでしま」う。そこで、綾は「おばあさんをがっかりさせてしまった」と思いこむ。ここで「絢さんは、どうしておばあさんをがっかりさせてしまったと思ったのだろう」と発問。子どもたちからは「遺族ではなかったから」「むかえに来てくれたわけではなかったから」などの発言がすぐに聞かれた。

 また、印象に残った表現・言葉としては「この楠木アヤちゃんの夢やら希望やらが、あなたの夢や希望にもなって、かなうとええねえ。…」をあげる児童が一番多かった。そこで、そのすぐ後に書いてある「わたしははずかしくなって下を向いてしまった。そんなことは考えたこともなかった」について問い返し、どうしてか考えることにしたところ、次のような発言があった。
「夢や希望が同姓同名の私の夢や希望になると思ってなかったから。」
「夢や希望という人生の目標について考えたことがなかったから。」
「(おばあさんが)泣くと思ってなくて、少してれた。」
「そんなふうに言われると思っていなかったし、言われたことがなかったから、よけいに嬉しいと思った(から)。」
「気軽な気持ちで広島に来てしまって自分は何も考えていなかったから、 はずかしくなった。」

 7時間目は、夕日に照らされた川や原爆ドーム、平和記念公園を望む橋のらんかんにもたれながら、広島での体験や出会いをふり返る最終段落を読み、物語の展開(全体像)をおさらいしたのち、広島へ行く前と比べて、今の綾の心の変化を一人一人がまとめることで、学習を終えた。
 まとめは、「⑴広島へ行く前の綾」「⑵記念資料館や平和祈念館、原爆供養塔での綾」「⑶綾はどのように変わったか」の3枚のカードを用意して、書き込んだカードをオクリンクで送ってもらうことにした。
「⑴原爆で亡くなったアヤちゃん「だけ」考えていた。⑵大勢が亡くなったことを知ってショック。少し反省した。⑶アヤちゃん以外の亡くなった人を思うようになった。」
「⑴ポスターで名前を見て気になったから、アヤちゃんを探しに行った(どんな子だろうって軽い気持ち)。⑵原爆の怖さと何十年も探しに来ない理由がだんだんわかってきた(ものが焼けたりして怖さがわかる)。⑶探しに来ない理由とアヤちゃん、それと他の人について、自分が気になったことが解決した。」
「⑴ポスターを見つけた。⑵悲しい。⑶その人の分まで生きようと思った。」
「⑴広島のことは「世界で初めて原子爆弾が落とされたところ」だということくらいしか知らなかった。⑵アヤは半分も見て回らないうちに、頭がくらくらした。知らなかっただけと、言われた気がした。⑶あのポスターに書いてあった楠木アヤちゃんのこと、ポスターのことを知っているおばあさんに会って、最初知らなかったことを知れた。」
「⑴なぜ誰も心当たりがないのだろうと不思議に思った。⑵家族も犠牲になったことが分かった。⑶人の気持ちを考えるようになれた。」
「⑴ポスターを見てアヤを探しに行きたいと思っていた。⑵広島に来た綾は、資料館とかに行っていろんなのを見て、最終的には、打ちのめされるような気持ちで出ていった。⑶世界でこんなにも大変なことが起きたんだと、綾は心の中に染み込ませた。」
「⑴なんでアヤちゃんをさがしにこないんだろう(ぎもん)。⑵一発の爆弾で…💛かなしい。⑶ずっとわすれないでいたら、世界中のだれも二度と同じような目に合わないですむかもしれない・わすれないという気持ちに変わった。」
「⑴アヤちゃんは、なんで何十年も1度もさがしてもらえないんだろうと思いました。⑵平和祈念館に行ったときに、なくなっている子供達を見て綾は、こんなにたくさんの子供たちがなくなっていると思っていなかった。⑶なくなった子供たちのためにも頑張って生きていきたい。」
「⑴自分と同じ名前があって心に残っていた。⑵今までこんな事があったなんて知りもしなかった。⑶死んでしまっていても、まだ生きている人が、その死んでしまった人を忘れていなければ記憶にいるけれど、忘れられたら人は本当の意味で死ぬということ。」
「⑴ポスターを見たときはあんまりきょうみがなかったけど、夢で出てきてどんどん気になっていった。⑵複雑な気持ち。⑶ポスターを見つけたときの綾は昔のことを真剣に考えていなかったけど、最後は昔のなくなった人のこととかを真剣に考えていた。」
「⑴ポスターの名前をただの名前だと言っている。⑵少しずつその名前への理解をする。⑶ポスターの名前にこめられた思いを知った。」
「⑴ポスターが気になっていた。アヤちゃんが気になっていた。⑵「原爆」に関するものがたくさんあり、頭がクラクラする。ちょっとずつ「原爆」について知っていく。おばあちゃんの言葉にはずかしくなる。⑶原爆のことを知り、いろいろな事を知る中で、「アヤちゃん」を見つけることができた。」
などである。

 以上、授業の展開に沿って、おおよそ子どもたちの読みがどうであったかを見てきた。ふり返ってみると、3時間目、広島に行く前の様子が描かれている所の読みに対する子どもたちの反応が、とてもよかった。7時間を総体的にみると、ひとつのピークだったのかもしれない。前にも述べたが、物語に対するわくわく感がストレートに出せるところだったように思う。

 私見であるが、広島へ行く前を描いた前半部分は、推理小説や探偵小説の冒頭に似て、さてこれからどうなるのだろう、主人公は果たしてたずねびとを探しあてることができるのだろうか、この後どんな展開が待っているのだろう、といった期待感を読者にもたせるような出だしになっている。
 広島に行ってからの前半の二段落(平和記念資料館や追悼平和祈念館での出来事や体験)は、児童の読みにもあったが、初めて見たり知ったりすることが次から次へと綾の頭と心に押し寄せてくる場面であり、また児童自身がリアルに綾と同じような視線で追体験していくように仕組んだこともあり、1945年8月6日の広島で起こったことをなぞることで子どもたちは手いっぱいであったとも言えそうである。自分も広島に行って調べてみたいという声もいくつか出てきた。一方で「おそろしい」「こわい」という印象だけがふくらんでしまった児童もいたかもしれない。

 これに続く、土まんじゅう(原爆供養塔)での段落は、あばあさんとの出会いが描かれており、また広島へ行った理由である、楠木アヤをたずね、何十年もだれもむかえに来ないのはどうしてかつきとめることが解決する場面でもあって、読みを深めたいと思うような場面である。ここはもっとじっくり読む時間をとりたかったと思う。
たとえば、この第7段落に2時間かけるとしたら、導入の第1時で広島へ行く前の四段落を読んでいき、広島でどんなことが待っているのか予想して終えるような展開もありだったのではないかと思う。そして、第2時で平和記念資料館の体験、第3時に追悼平和祈念館の体験、第4時・第5時で原爆供養塔での出会いを読んでいく展開のほうが子どもの読みを深めやすかったと思う。一般的な物語文の流し方にとらわれすぎたかもしれない。そして第6時で最終段落を読み、綾の心の変化をまとめ、第7時で全体を読み返し、自分の読みの変化をふり返る時間にするとよかったように今は思う。

 この物語は、5年光村教科書のための書き下ろしであるが、長いこと構想していた作品のようである。この作品のだいご味は、時間軸の反転と、時間軸と空間軸の交錯にあると思う。
 気づいている子どももいたが、この物語のおもしろさは、遺族でも知り合いでもない、縁もゆかりもない人(子ども)が、原爆で犠牲になった特定の人物を(おそらく初めて)たずねにくるというところである。
 時間軸上でいえば、過去とつながりのない人が、過去(の人)をたずねるという、つまり未来人が過去へタイムスリップする物語である。ここがおもしろいところで、単に施設をおとずれる話ではない。
 第7段落で、一瞬おばあさんがだまりこむ場面が描かれている。このとき、楠木アヤにとって、未来からの訪問者が目の前にいる楠木綾であることの意味(大げさにいえば歴史的な意味)に気づくための、またその意味をかみしめていた一瞬だったのではないか、と意味づけたい。

 この話の展開は、作者である朽木祥が広島出身の被爆二世であること、さらに被爆体験者が少なくなっていく中でどのように被爆の事実と被爆の意味を未来へつないでいくかという作者の課題意識があったからこそ構想され、生み出された物語だと言えそうである。
 いずれにしても、いろいろ考察する機会を与えてくれた子どもたちの素直な読みに感謝したい。


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