見出し画像

「戦国時代」に大きな影響を与えた南蛮貿易

 日本が戦国時代を迎えていた頃、遠くヨーロッパでは、スペインとポルトガルが、香料や金銀財宝を求めて世界中の海に乗り出していた。大航海時代の始まりである。ポルトガルはアジアにも食指を動かしており、遠く日本とも交易を行おうとしていた。「南蛮貿易」である。南蛮貿易は、当時の日本に多くの軍需物資をもたらし、戦国の趨勢に大きな影響を与えた。

 後世を生きる私たちは、南蛮船に対して、「ヨーロッパからはるばるやってくるのだから、貴重品や珍品を細々と運んでいたに過ぎないのだろう」というイメージを持つかもしれない。しかし、戦国時代の南蛮貿易は、私たち想像している以上にダイナミックに行われており、当時の日本の経済の一角を占めていたのだ。

 そもそも南蛮貿易というのは「ヨーロッパと日本の間」だけの貿易ではない。当時のポルトガル船は東南アジアを根拠地にし、明や日本を行き来して利ザヤを稼いでいた。ヨーロッパからの物資を運ぶこともあったが、それはごく一部であり、大半は、アジア圏内を行き来していた。つまりポルトガル船というのは、いまで言うところの貿易商社のような働きをしていたのである。

 ポルトガルがアジア貿易に乗り出したのは16世紀初頭のことである。永正7(1510)年にインドのゴアを占領、翌年にはマラッカをも占領し、東南アジアにおける拠点を築いた。永正10 (1513)年には、明と通商関係を結んでいる。これにより、明、インドとの中継貿易を行い、東南アジアの物流に大きな影響力を持つにいたった。弘治3(1557)年には海賊を討伐した報償として、明からマカオを割譲されている。

 ポルトガル人が日本を初めて訪れたのも、ちょうどこのころ、つまり天文12 (1543)年のことである。現代でもよく知られている、「種子島への漂流船」である。その後、ポルトガルは日本との貿易にも進出した。戦国時代の日本の貿易は倭寇が支配していたが、明政府の強力な鎮圧により16世紀には倭寇の勢力は急速に衰える。倭寇なき後の日本の海外貿易は、ポルトガルが独占する格好となった。鉄砲の弾丸に使われる鉛や、弾薬の原料となる硝石などは、当時の日本では生産できず、海外からの輸入に頼っていた。つまり倭寇が衰えた後は、南蛮貿易を介さなければ、鉄砲の弾丸も弾もつくることができなくなったのだ。当時の南蛮貿易は、戦国大名たちの鉄砲に関する軍需物資を事実上、独占的に商っていたのである。

 このように、戦国大名にとって重要な位置を占めていた南蛮貿易であるが、これが実はキリスト教と切っても切れない関係にあった。極端に言えば、南蛮貿易は、キリスト教の布教の一環でもあった。戦国時代、キリスト教徒が日本で爆発的に増えるのだが、これにも南蛮貿易の発展と深い関わりがあるのだ。

 当時のキリスト教は、世界中に教義を広め、宿者を増やすことを大きな目的としていた。1494年、ローマ教皇に承認されたトルデシリャス条約では、「ポルトガルとスペインで世界を二分してよい」ということになっていたが、これは「キリスト教を布教すること」を条件とされていた。つまりは、「未開の人々にキリスト教の福音をもたらすために、世界を占領しなさい」ということである。もちろん、それはローマ教皇とポルトガル、スペインが勝手に言っているだけのことであって、現実問題として世界をその二国で占有できたわけではない。しかし、ポルトガルとスペインの両国が、このトルデシリャス条約を契機にして、大々的に世界布教に乗り出したということは間違いないのだ。そして、キリスト教の布教と、交易は表裏一体のものだった。宣教師が各地に派遣されると、商人たちも帯同し、交易を行ったのだ。その交易で得た利益の一部が教会に還元され、教会はその収益で宣教師をさらに各地に派遣するというシステムになっていたのだ。
 
 この「キリスト教貿易」は世界中を席巻し、戦国時代には東南アジアまで達していた。

私の記事を読んでくださり、心から感謝申し上げます。とても励みになります。いただいたサポートは私の創作活動の一助として大切に使わせていただくつもりです。 これからも応援よろしくお願いいたします。