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杉原千畝の「命のビザ」 6千人を救う

 杉原千畝・・・「東洋のシンドラー」とも呼ばれる外交官である。。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られている。
 杉原千畝は、今夏、テレビ朝日系で放映されたミステリードラマ「ハヤブサ消防団」(原作者の池井戸潤)の舞台「八百万(やおろず)町」のモデルとされる岐阜県八百津(やおつ)町の出身である。八百津町にもリトアニアのカウナスにも「杉原千畝記念館」がある。八百津には数回訪問したが、リトアニアの記念館を一度訪ねてみたい。

 杉原千畝は少年期の約10年間を名古屋で過ごした。千畝氏の功績をたたえ、当時の居住地付近から出身校である旧制愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)を結ぶ全長約4. 5キロメートルが「杉原千畝 人道の道」(下記ホームページに掲載)と名付けられている。瑞陵高校には、「杉原千畝広場  センポ・スギハラ・メモリアル」という千畝の人道的功績を顕彰する屋外型展示施設がある。

 名古屋市のホームページには、杉原千畝の功績につき、以下の説明がアップされている。名古屋市:杉原千畝顕彰事業(暮らしの情報) (city.nagoya.jp)
【外交官になるまで〔1900(明治33)年から1923(大正12)年まで〕】
 1900(明治33)年、岐阜県で生まれた千畝氏は、父・好水氏の仕事の都合で、小学校低学年のときに名古屋市古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)に転入しました。
 1912(明治45年)、尋常小学校を卒業した千畝氏は、愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)に進学し、1917(大正6)年に卒業しました。
 その後、早稲田大学に入学しましたが、1919(大正8)年に外務省留学試験に合格し、ロシア語を学ぶ留学生として、ロシア人が多く暮らす中国東北部ハルビンに向かいました。

【外交官時代(1)ビザ発給まで〔1924(大正13)年から1939(昭和14)年まで〕】
 1924(大正13)年、千畝氏は外務書記生に任命され、1925(大正14)年からハルビンの日本総領事館で働き始めました。満州国外交部へ移籍したのち、日本外務省に復帰し、1937(昭和12)年に在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、1939(昭和14)年にリトアニアの在カウナス日本領事館の領事代理となりました。
 そのころ、ヨーロッパではナチスが勢力を広げ、ユダヤ人への迫害が増大していました。国外脱出を図るユダヤ系避難民は、一時避難をしていたリトアニアから、ナチスの脅威が及ばない安全な地域への逃亡を目指していました。

【外交官時代(2)ビザ発給〔1940(昭和15)年〕】
 1940(昭和15)年7月18日の早朝、ポーランドからリトアニアに逃亡してきたユダヤ系避難民が、ソ連によるリトアニア併合の動きから早急に国外への脱出の必要を感じ、日本領事館に通過ビザを求めて大勢殺到しました。緊迫した中、千畝氏は外務省と連絡をとりましたが、外務省からの命令は「発給要件を満たさぬ者へのビザの発給はならぬ」というものでした。しかし千畝氏はユダヤ系避難民に対し、ビザ発給を行いました。
 晩年、千畝氏はこう述べています。「苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している」

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